明治維新は薩長因備こそ立役者 二条城で山国隊考察シンポ 専門家解説に100人聞き入る

10月22日の時代祭で行列の先頭を歩く維新勤王隊列のモデルである「山国隊(やまぐにたい)」にスポットを当てたシンポジウムが、京都市中京区の世界遺産・二条城で行われ、山国隊ゆかりの市民や歴史愛好家ら約100人が専門家の話に熱心に聞き入っていた。京都市が明治150年を記念し、年間を通して行っている催しの一環。山国隊は、武士ではなく、刀さえ握ったことのなかった農民らが組織した農兵隊だ。戊辰戦争(1868年)に新政府軍(官軍)として京都市北部の京北・山国地域から出陣し、旧幕府軍と戦った。江戸から京都へ凱旋(がいせん)する際に、軍楽行進曲を演奏し続けたことが、現在の時代祭の維新勤王隊列の鼓笛につながったとされる。

↓ 詳しくはこちらで

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180914-00000090-san-l26

>山国隊ですか。なるほど。でも、ちょっと解説が一般的すぎるような。武士ではなくても江戸後期には農村武術は一般的になっていますし、どこも銃を基本とした兵が組織されていきます。例えば、東征軍には神儀隊・赤心隊・報国隊といった神主層を中心とする一段が従軍しています。彼らも最後には西洋銃で組織化されます。だからこれらを一般的に「農兵」と言ってよいのか。「農兵」と幕府や藩によって組織された「歩兵組」や「諸隊」、そしてこうした「草莽隊」は、それぞれの編成原理についてもう少し突っ込んだ研究が必要だと思いますし、同時にそれらを総合して考えていく視点が必要でしょう。私はそもそもが、それぞれの編成原理は異なっていると思いますし、新選組や新徴組といった存在も一群の問題として考えていかなければならないと思っています。そしてその転機は、幕府が軍制改革を実行した文久2年(1862)と、江川農兵が許可された文久3年にあると思っています。まだ、これからですが…。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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