以前、ちょっとお話ししていた栃木県芳賀郡益子町での講演についてです。結局、「黒羽藩主大関増裕の改革と下之庄」というタイトルでお話をすることにしました。
大関増裕は、天保8年(1837)に、遠江国横須賀藩主西尾忠善の嗣子忠宝の三男として生まれ、文久元年(1863)に下野国黒羽藩の15代藩主となります。黒羽藩は、1万8000石の外様大名ですが、増裕は、藩主となった翌文久2年から幕府の講武所奉行に就任したことを皮切りとして、陸軍奉行、海軍奉行、若年寄などの要職を歴任します。それ自体、異例のことです。増裕が藩政の改革に取り組むのは、陸軍奉行を辞した文久3年からです。文久2年と言えば、幕府自体が洋式軍制を取り入れた軍制改革に取り組む時期です。その当初から、幕政に関与していたのでした。
増裕は、改革にあたって家臣に全権委任を求めます。というのも、前代の増徳の改革が家臣の反対にあって頓挫したためですが、何よりこの改革では、西洋式軍制と農兵の取立など、軍事改革に取り組んだことが有名です。ただし、講演では、軍事改革よりも民政の改革について主にとりあげる予定です。
下之庄とは、益子村周辺の飛び地領を指していて、城付領を上之庄と呼ぶことと対比しています。その総石高が5000石程度になることから、下之庄五千石とも呼ばれています。下之庄では、益子村に陣屋が置かれて支配していきます。それでは、そこではどんな改革がおこなわれたのでしょうか?
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