元禄から宝永 綱吉の晩年

今日のつぶやき
元禄から宝永 綱吉の晩年

先日こちらで三波春夫さんの「元禄名槍録 俵星玄蕃」の話を書きました。で、日曜日には東北地方で震度6を超える地震が起きました。必然的に私の研究テーマの一つである元禄関東地震についても想いを馳せながら、そう言えば、第5代将軍徳川家綱の晩年は波乱続きだなと、ふと思いました。もちろん、元禄赤穂事件と元禄地震はなんの関連もありませんが続いているんですよね。

赤穂事件も発端となった江戸城松の廊下における浅野内匠頭に刃傷事件が元禄14年(1701)3月14日。西暦で言えば、18世紀に入った年だったんですね。そして吉良邸への討ち入りが、翌元禄15年(1702)12月14日、いわゆる赤穂浪士四十七士の切腹が元禄16年(1703)2月4日。そしてその年の11月23日の午前2時頃に元禄の大地震が起きます。この日は、西暦に直せば12月31日、今なら大晦日のことでした。旧暦の12月29日からは山鳴りが続いたと言われています。余震が多かったのでしょう。

事件と災害が続く中で、翌年(1704)3月13日には「宝永」と改元されます。ちなみに元禄地震で天守をはじめ石垣から各門まで崩壊し、その上火事で焼失した小田原城は宝永2年(1705)4月に修復工事が完成しております。

1年明けて宝永4年(1707)10月4日には、東海道から紀伊半島、四国までの範囲で大地震が発生します。いわゆる南海トラフを震源とした地震ですね。さらに翌4日には今の富士宮市付近を中心とする富士宮地震が発生し、駿河国と甲斐国に被害をもたらします。翌11月10日にはこのあたりで地響きが続いたかと思うと、22日に富士山の周辺で比較的強めの地震が数十回続き、23日の午前10時頃、ついに富士山が火を噴きました。危機管理の連続ですね。

それにしても元禄地震と宝永富士山噴火は4年を隔てた同じ11月23日のことたっだのですね。旧暦ではありますが…。

富士山噴火では火山灰の噴火がひどく16日も降り続き、翌宝永5年(1708)閏1月5日にはもっとも被害を受けた相模国小田原藩領11万3000石の内、5万6384石が幕府に召し上げられて、幕府の手で復旧工事が進められることになります。もっとも、小田原藩には代わりの土地が与えられていますから、その点では恵まれています。被災地が幕府の関東郡代伊奈忠順に引き渡されたのが閏1月8日のことでした。

綱吉はこの翌年、宝永6年(1709)1月10日に64歳で亡くなっていますから、まさに晩年は事件と災害とその対策に追われた最後だったと言っても過言ではないでしょう。

これから先東北地方は余震が続きのでしょうか?ちょうど私立大学の試験真っ最中で、東北新幹線が一部区間不通になったことで、受験できない受験生も出ているとか本当に気の毒としか言いようがありません。文科大臣は追試験などの処置を…と言っていましたが、試験問題がそんな一昼一夜で出来るわけはないじゃないですか。早稲田大学が特例として共通テストで合否を決めると発表していまいした。それが関の山ですね。

今年は東日本大震災から10年になります。私が初めて被災地に足を踏み入れたのは、2015年の3月でした。翌年から目の病気を患いましたから、4年経ってようやく尋ねることができました。

こちらは2015年3月20日に行った陸前高田市の奇跡の一本松と被災したユースホステルの残害です。もう4年が経っていましたから、周辺でも復旧作業が急ピッチで進んでいました。あのどんよりとした空は忘れません。今はどれぐらい進んだのでしょうか…。

何だか話がそれてしまいましたね。いずれにしても東北地方では余震が続いているようで、和歌山でも昨日は震度4クラスの地震が発生したとか。とにかく、これ以上大きくならないで、早く平温を取り戻してほしいものです。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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