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武蔵金沢藩主米倉家 ~秦野・中井そして足柄~

令和3年3月3日!すべて3並びの今年の雛祭りは、とくにお雛さまを飾るわけではないですが、横浜市歴史博物館学芸員の小林さんを案内して、武蔵金沢藩主であった米倉家関係のお寺を訪ねる一日でした。

武蔵金沢藩は、明治になる際に加賀の金沢藩と名称が重なるということで、六浦藩(むつらはん)と改名しています。米倉家は甲斐武田氏の家臣で武川衆に属していたそうです。武田氏滅亡後に家康に召し抱えられ、家康が江戸に入部した際に秦野地方に領地を与えられたそうで、だからここが本貫地なのですね。元は旗本でしたが、元禄9年(1696)3月28日に米倉昌伊(まさただ)が若年寄に任命され、しめて1万石を拝領し、武蔵金沢(現・横浜市金沢区)に藩庁を置いたことから、大名に列せられます。ただし、元禄11年(1698)に5000石を加増されて、下野国都賀郡皆川(現・栃木県栃木市)に藩庁を移したものの、7月12日に死去。最終的には1万2000石。ここら辺はどうもはっきりしないことが多いので、もう少し調べてみる必要がありそうです。

その後、享保7年(1722)(享保8年ともあり)、忠仰(ただすけ)の代に武蔵国金沢(現・神奈川県横浜市金沢区)に領地を移されます。この転封は、享保5年(1720)に浦賀番所が移転したことに関してのとの説もあります。なお、忠仰は柳沢吉保の六男で、柳沢家も武川衆から家康に取り立てられた一族でした。武川衆の中では米倉家と柳沢家だけが大名に取り立てられたとのことです。

菩提寺は秦野市堀山下の曹洞宗蔵林寺です。ご住職には小林さんから連絡してありました。

お墓だけを撮影しようと思ったら、ご住職のご厚意で本堂まであげていただきました。何の知識もなくて訪問したものですから、とにかくびっくり!本堂内の「會下峯」という部屋には、「大仏師浅井四郎左衛門」なる人物が作成したという米倉昌伊の木造があるではないですか!しかも米倉歴代の位牌もあって、その中でもっとも大きく、真ん中に鎮座しているのがこれまた昌伊の位牌で、一つだけ金箔が施されていました。法名は「当寺再中興会期蔵林寺殿従五位下前丹州刺史徳石道明大居士」で、没年はもちろん元禄12年7月12日となっていました。また、蔵林寺に残る古文書によれば、当寺の本堂は寛文年中(1661~73)に昌伊が建立したものの、その後年月を経て「大廃」となったものを宝暦11年(1761)に金沢藩主昌明が再建したとある。ご住職のお話では、今の本堂はこの再建当時のものがそのまま引き継がれたのことでした。また、米倉家が信奉していた珍しい横向きの不動明王像(厨子入り)や、位牌を入れた堂内お堂などがあって、なかなか圧巻でした。お見せできないのが残念です。さらにはこんなものも…。

大名駕籠です。毎年、子どもをこの駕籠に乗せるお祭りが開催されているそうです。残念ながら、昨年は新型コロナウイルスのために中止になったとのことでした。今年は開催されるといいですね…。

米倉家の墓所には墓石20基、石灯籠23基、家老塚1基が残っていて昌尹と先代の昌純が埋葬されているとのことでした。

こちらは神奈川県中井町にある同じく曹洞宗米倉寺で、蔵林寺の末寺になります。

お寺の看板によれば、この地には用国院という寺院があったが、蔵林寺2世の天宥宗高大和尚が開山となって新たに米倉寺を開いたとのことです。

こちらには4基の宝篋印塔と3基の五輪塔、2基の石塔、そして石仏1基が並べて建っています。実はこの墓所を撮影するには引きがとれなくて、普通のカメラでは全体を撮ること自体難しいのですが、iPhone12Proの広角とStegeCamHDというアプリの1920dot×1080dotで撮影すれば、きちんと収まるのです。これは正直、凄い。

この間には、南足柄市の地蔵堂、夕陽の滝、静岡県小山町の足柄城址なども訪れていますが、力尽きたので、続きはまた後日!

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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