今日も箱根!渋沢栄一展

今日のつぶやき
今日も箱根!渋沢栄一展

先日書きましたように、先週の金曜日、19日は箱根の石畳整備に関する委員会がありまして、久しぶりに箱根町立郷土資料館に参りました。ところが、会議のあとで他の委員の先生や鈴木館長、それに大和田さんも久しぶりだったので、いろいろと話をしていましたら、ノートパソコンを会議場に忘れてしまうという大失態を演じてしまいました(^_^;)しかも、というかやはりというか、筆箱も一緒に忘れておりました…。買ったばかりの万年筆と、誕生日のお祝いとして下の娘からもらったおしゃれなインクボールペン(本当に万年筆のように瓶からインクを吸い上げて使うんです)も一緒に入っていましたから、なくしたら真っ青でした。いや~よかったです。

行ってみて初めて知ったのですが、郷土資料館は水曜日がお休みなんですね。申し訳なかったなと思いつつ、ただ、鈴木館長は普通に出勤されていましたので、よかったです。しかも企画展「箱根を拓く-渋沢栄一と箱根-」を解説付きでじっくりと拝見することができましたので、ラッキーでした(^^)

渋沢栄一が箱根にかかわっているだろうなというのは、まぁ~目をつけないはずはないなということで納得していたのですが、かかわり方が想定外で本当に興味深かったですね。まず、明治13年(1880)だったかと思いますが、仙石原の半分を買い取って、牛馬の牧場を開いたというのですね。この名も「耕牧舎(こうぼくしゃ)」。馬は外国馬と掛け合わせてそのまま売ったそうですが、牛は牛乳とチーズを作って売るという商売を始めます。これに協力したのが、三井物産の創立に尽力した実業家であり、茶人益田鈍翁としても知られる益田孝でした。

もっとも現地の経営者がなくなると、牧草が足りないこともあった、明治30年代の後半には牧場経営は止めるようです。ただ。「耕牧舎」そのものの経営は、東京にも進出していて、その中の一つ京橋店を経営していたのが、新原敏三…そう、芥川龍之介のお父さんなんですね。だから耕牧舎自体は、芥川龍之介研究者にはよく知られた存在だとか…。そこにつながっていくとは…という感じですね。何よりこれらの一連の史料が箱根に残っているのが素晴らしい!実は昨年が耕牧舎140周年にあたるということで、展示そのものも昨年予定されていたとか。ところが、新型コロナウィルス感染症があるマイナスがあったにもかかわらず、今年はNHK大河ドラマ「青天を衝け!」の主役が渋沢栄一ということでプラスの延期になったとか。

何より驚いたのは、昭和5年(1930)に設立され、現在も運営されている「箱根温泉供給株式会社」の創立にも主体的にかかわっていたということでしたね。これは大涌谷から温泉を引いて、仙石原を温泉場にしようという計画でした。ただ、大涌谷は湯量が少ないので、掘り下げて温泉を溜め、それを仙石原に引くわけですから、結構、大規模な工事になります。これに昭和天皇の静養地やそのためのゴルフ場建設もかかわっていて、だから宮内庁も関係する案件だったんですね。そこは政財界に顔の広い渋沢の腕の見せ所だったのでしょう。大涌谷の温泉はさらに強羅にも引いたのだそうですから、考えてみれば、近代の新規温泉場の開発に渋沢が直接にかかわっていたということだったのです。強羅は昭和3年(1928)に日本電力と小田原電気鉄道が合併して設立された箱根登山鉄道によって開発されていくのですが、そこの出向社員となったのが北條秀司で、強羅ホテルなどの建設に尽力します。今に続く箱根の大名行列もそうでしたね。ここも意外なところにつながっていてびっくりでした。石畳どころか、箱根のこともあまり知らないですね(^_^;)

その他、渋沢は歌にも歌われた青い目の人形を日本の小学校に配布する運動にもかかわっていたとか。防空頭巾を被った青い目の人形も展示してありました。何でも戦時中に金髪を隠すためだとか…。とにかく興味のある方にはぜひ観に行っていただきたいですね。

秋の柔らかな陽ざしが降り注ぐ箱根にも人手が少しずつ戻ってきていました。小田急の赤い新型ロマンスカーも箱根湯本駅に停まっていました。郷土資料館に通じる赤い橋にも人がちらほら。私はこちらのお店でちょっと晩のおかずを買って帰りました。4時間目は来年度のゼミの授業でしたから。もちろん対面です。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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