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下総国佐倉城

今日から5月ですね。午前中徒歩で病院に行って、本厚木駅で薬を受け取ってきました。天気予報通り、今は雨が降っています。昨日はあんなに良いお天気だったのに…。それにしても最近の天気予報は正確になりましたね。それだけに知床半島の観客船沈没事故が痛ましいです。

4月の最後に昨日は、千葉県の佐倉まで行ってきました。小田急ロマンスカーで新宿に出て、山手線で日暮里へ。日暮里から京成電鉄で京成佐倉駅に向かいました。全行程で2時間半ほどでしたでしょうか。車は運転が嫌いなので、できるなら電車で行きたいのです。現地での移動範囲は広くなりますが、町の様子や路地の風景、目的地まで向かう景色等々楽しみたいですよね。

佐倉へは国立歴史民俗博物館に2度ほど行ったことがありますが、それ以外で行くのは初めてです。ましてや電車で行くなど今までありませんでした。

一応、Googleマップで時間とか周辺のようすとかは調べていましたが、佐倉駅ってJRと京成電鉄と2つあるんですね。そんなことすら知りませんでした(^^;)単に佐倉城に行くには京成電鉄が近いと思っただけでした。とりあえず駅側の観光案内にいって佐倉のマップをもらい、道順を確かめてお城をめざし…その前に腹ごなしをしようかなと。

そんな中で、途中に麻賀多(まかた)神社という佐倉の守り神、佐倉藩の守り神があることを知りました。せっかくだからちょっと立ち寄ってみました。

拝殿の前には鯉のぼりが泳いでいて端午の節句であることを感じさせます。拝殿にはお祈りのための鈴が着いています。本殿までぐるっと廻ることができるので、お祈りした後に廻ってみたら、小さいけれど結構、瀟洒で立派な神社です。それもそのはず、この神社は佐倉藩主で同藩の天保改革を行ない、幕閣では老中として、アメリカの駐日総領事ハリスとの交渉で修好通商条約を締結締結した堀田正睦(まさよし)が、天保4年(1833)に建てたものとのことでした。

そこから次に佐倉藩の武家屋敷を見にいきます。これも佐倉城の途中ですが、ちょっと外れます。

4棟の武家屋敷が残っています。左上が旧河原家、右上が旧但馬家、左下が旧武居家で、右下は武居家に飾られていた甲冑です。だいたい近世後期~幕末期に建築されたもののようです。どのくらいの位置の家臣かわかりませんが、佐倉藩の石高が11万石ですから、それほど身分の高い武士の家ではないかと思われます。右上の写真などは、山田洋次監督作品で、真田広之さんが主演された映画「たそがれ清兵衛」のセットのようですね。庭で野菜を作るなんてまさに…です。

ここらでお腹が空いたので、お昼ご飯を。お昼はあらかじめネットで調べて、「麺屋ぱんどら」というラーメン屋さんへ。佐倉駅から7分くらいとあったのにやけに歩くなと思ったら、JR佐倉駅の間違いでした(^^;)

こちらはつけ麺で有名なラーメン屋さんらしくて、豚バラ、魚介、牛鍋などのつけ麺のスープが多彩です。かみさんは魚介の辛いのを、私は豚バラの辛味噌を頼みました。つけ麺と言えば麺の量が普通のどんぶりラーメンの1.5倍ほどあるのですが、ここは半量というのもありました。スープはとにかく辛いのですが、うまい!いわゆる旨辛です。しかもバラ肉やチャーシューの他に野菜がたっぷり入っていて、それが旨みを引き出しています。でも、全部飲み切るにはやっぱり辛いです。

さて、いよいよ佐倉城址公園へ。ここは譜代の名門堀田家の城として有名ですし、そう紹介されるのが一般的ですが、堀田家が佐倉城に定着するのは延享3年(1746)のことで、それ以前は頻繁に藩主が交替しています。近世城郭としての築城は、徳川家康の命で、大老の起源とされる土井利勝が行っています。もちろん中世からの城郭ですが、利勝が3万2000石で佐倉に封じられたのが慶長15年(1610)で、築城の後、寛永10年(1633)に同じ下総の古河に移封されると、後には備後日田(大分県)から石川忠総(ただふさ)が7万石で入封しますが、翌寛永11年(1634)には近江国膳所(ぜぜ、滋賀県)へ転封となり、同12年に摂津国高槻(大阪府)から松平家信(形原松平家)が4万石で移封されます。松平家も寛永17年(1640)に旧領の高槻に戻り、同19年(1642)に信濃国松本(長野県)から老中の堀田正盛が11万石で移封されたものの、正盛は慶安4年(1651)3代将軍家光の死に際して殉死し、跡を継いだ正信は幕府に不満を抱いて、万治3年(1660)に無断で佐倉に帰ったことから改易となります。これが堀田家が佐倉を拝領した最初のことでした。

佐倉城にはその後、寛文元年(1661年)に上野国館林藩(群馬県)から松平乗久(大給松平家)が入ったものの、延宝6年(1678年)に肥前国唐津藩(佐賀県)へ移封となります。乗久と入れ替わる形で、肥前国唐津から移封されたのが、老中の大久保忠朝で8万3000石で入封します。忠朝は延享8年(1680)に1万石の加増を受け、天和元年(1681)老中首座となりますが、貞享3年(1686)に相摸国小田原に移封となります。はい、この移封によって大久保家は小田原の地を再拝領することになるのですが、私が佐倉城を訪れたのもこのためでした。

4月1日のブログで佐賀の唐津城を訪ねたと書きましたが、その後、大久保忠朝はこの佐倉に移封されたので、唐津城に続いて訪れてみたのでした。

佐倉城には忠朝の後に武蔵国岩槻藩(埼玉県)から老中戸田忠昌が6万1000石で入封し、戸田家はその後元禄14年(1701)越後国高田(新潟県)へ移封となり、代わって越後国高田から新任の老中稲葉正往(まさみち)が10万2000石で入封します。稲葉家は大久保家が小田原を再拝領する前の小田原藩主でした。この稲葉家も享保8年(1723)に山城国淀(京都府)へ移封となり、入れ替わりで山城国淀藩から新任老中松平乗邑(のりさと、大給松平家、松平乗久の孫)が6万石で入封します。乗邑は享保改革の推進者として知られていて、老中首座・勝手掛老中になりますが、延享2年(1745年)徳川家重が将軍に就任すると老中を罷免され、減封を受けた上に隠居を命じられます。さらに乗邑の子の乗祐(のりすけ)が家督を継いだ後の延享3年(746)に出羽国山形(山形県)へ移封されます。その後に乗祐と入れ替わる形で出羽国山形から佐倉に入ったのが老中堀田正亮(まさすけ、正信の弟で正俊の孫)で、10万石で入封します。堀田家もまた、相模国小田原の大久保家と同じように、祖先の居城に再度戻ってきたのでした。そのため、延享3年以降の佐倉藩堀田家を後期堀田家とも言います。

それにしても頻繁な所領替えが続きますね。それも短い周期で代わっています。老中が拝領することが多いので、佐倉城は「老中の城」とも呼ばれています。大久保忠朝も老中として入封したのが延宝 6年(1678)、小田原への転封が貞享3年(1686)ですから、わずから8年居城しただけでした。江戸時代中期まではこのように老中が短期間に入れ替わることが続いたのでした。小田原が関東の西の守り口ならば、佐倉藩は東の守り口になります。そうした経験が必要とされたのでしょうか。ただ…。

予想はしていましたが、佐倉城址公園には何も残っていませんでしたね。三の丸、二の丸、本丸等々広大な公園が広がっていて、それぞれの案内看板には往時の写真などもありましたが、それらを感じさせるものはほとんど残っていません。そもそも佐倉城は土塁と堀の城なので、そうかなぁとは思っていましたが、それ以上でした(^^;)佐倉には明治に歩兵第2連隊が配置されますから、その影響もあったのでしょう。

佐倉城も唐津城と同じく『吉岡由緒書』に写真を載せようと思って行きました。とりあえず天守台の跡があるというので、それでも写真に収めておこうかと思って参りました。天守といっても本当に櫓を天守としたようでしたが。

実際に行ってみると、天守跡にはこの真新しい石碑?!が建っていただけでした。右上の写真がその天守台で、右下はその天守台から本丸を撮したものです。モノクロで写真を載せてもなかなか難しそうだなとは思いました。立派な御殿も門もあったのに残念だなと思いました。ただ、本格的な土塁と堀の近世城郭を実際にこの目で見られたのは幸いでした。埼玉の川越城も前橋城も、関東の城では総石垣の城は少ないのです。そうしてみると小田原城は総石垣の上に戦国大名北条氏時代の土塁や空堀の活かされていますから、そういった意味では貴重な城郭だなと意をあらたにした次第です。

あ、せっかくですから、途中二の丸の入口に建立されていたハリスと堀田正睦の銅像も紹介しますね。

国立歴史民俗博物館についてはまた明日お送りいたします(^^)/

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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