国立歴史民族博物館

今日のつぶやき
国立歴史民族博物館

昨日の続きです。一昨日は、千葉の佐倉城を訪ねた後、お決まりの国立歴史民俗博物館、通称:歴博に行ってきました。これからは「歴博」で統一しましょう。

歴博に来たのは何年ぶりでしょうか?開館が1981年で、確か新入生の研修場所が歴博だった時に一緒に行ったのが最初でしたね。1985年前後のことです。その後、もう1回確か行ったと思うのですが、それについてはまったく覚えていません(^^;)

遠くから全景をみても、近くで見ても何だか記憶が蘇りません。確かに側面には「歴博」の文字がありますが…。やっぱり記憶が蘇りません。

当日は企画展示として「中世武士団―地域に生きた武家の領主―」が開催されていました。これは事前に調べておきましたが、なかなかよい特別展でしたね。中世史研究が大きく変わっていることが実感できました。武士が草深い関東などの辺境の地から出てきて、都の権門を倒して新しい時代を築いていく…というのが私らの学生時代の通説でした。ところが、近年と言ってもすでに30年近くは経っていますが、武士とはそもそも京都から起こった貴種なのだというところから議論が始まって、武士が全国に所領を持っていて、その間を行き来しながら、京都などの都市ともつながっていたこと、本拠を中心に、全国の領地を管理・経営する実態などさまざまなことが明らかになってきました。将軍をはじめとする上級の武士から拝領した土地を守っていく「一所懸命」が実は間違っていたのではないかとか。もちろん、中世の武士たちの残酷さも…(^^;)

twitterでも呟いたのですが、現在の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも毎週、重要人物が死んでいて、権謀術策が渦巻き、裏切りや不意打ちは当たり前の中世社会に比べれば、武家政権でありながら200数十年にわたる「平和」いわゆる「泰平の世」をつくりあげた江戸時代というのは凄いな、おもしろいなと研究者として改めて思います。よく「兵営国家」とか言われたりしますが、それこそ法整備も進んでいきます。もちろん、拷問や極刑、冤罪などは当たり前ではあるものの、それでも戦争といった力から法が支配する社会へと変貌したことは確かでしょう。藤木久志先生が指摘されていた豊臣秀吉がめざした惣無事の論理です。ただ、それも一昼一夜にできたものではなくて、江戸時代の中期までかかったと考えるべきで、だから、享保改革における「御定書百箇条」の制定は重要だなとつくづく感じる今日この頃です。

広大な佐倉城を見た後ですから、特別展を見るのも時間不足なって、最後はサーッと見て、近世の展示だけ見ることにしました。この展示のあり方もずいぶん柔らかくなっていて、やはりイメージが変わっていましたね。

内容は複製物や模型などの新造物が多かったですから、写真もフラッシュを焚かなければ撮り放題でしたね。右上は洛中洛外図屏風の複製で、左下は江戸日本橋辺りの模型、右下は筑前国秋月藩(福岡県)にお抱え絵師が描いたという四季耕作図で、太宰府辺りの農村が描かれているそうです。

せっかくですから、洛中洛外図屏風の動画もどうぞ~!

こうしたバタバタとした佐倉日帰り強行ツアーは終わりました。当日はもちろん歴博で特別展の図録も購入しました。んが、武家屋敷の切符売り場で『佐倉市史研究』を販売していたので、気になった論文や講演録が掲載されていたものを2冊購入しました。

ここら辺がまぁ一種の病気ですね。でも、偉いでしょー!

なお、中世から近世への変化については、拙著『江戸学と現代社会』で、「かぶき者」を題材に従来の諸研究をまとめる形で執筆していますので、興味がございましたならばぜひご購入ください(^^)/

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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