天晴れ!!

今日のつぶやき
天晴れ!!

私事で恐縮ですが、9月4日の日曜日に福岡の実家の母が亡くなりました。3年ほど前から彌栄苑という特養施設に入所していたのですが、新型コロナウイルス感染症のために帰郷も叶わず、当然会うことも叶いませんでした。それがこの春、実に2年半ぶりに帰郷できて母に会えたのは当時のブログに書いたとおりです。

その母がコロナに感染したと聞いたのは先月下旬のことでした。ただ、その時は10日間の隔離期間を終え、食欲もあるというので安心していました。容態が急変したのは先月末ことで、熱があって、あまりご飯を食べなくなったという連絡を受けたのですが、今は入院する病院がないということでした。こんなところでコロナ禍第7波の被害を受けるとは思いませんでした。今月に入ると酸素吸入の連絡があり、かなり容態が悪いとのこと。そんな中、母に合せてくれるという連絡が妹から来ました。夕方でもいいとのことでした。台風も来ていましたが、とにかく取るものも取りあえず、3日に飛行機に飛び乗りました。

夕方6時過ぎ、妹に甥、姪らとともに彌栄苑に行くと、玄関ホールまでベットごと母を連れて来てくれました。もうその時には意識が混沌としていて、目を開くことも出来ません。ただ、手を握りしめて「弘臣ばい、帰ってきたばい、お母さん」と何度か呼びかけるとかすかに手を握って、少しだけ頷いてくれました。本当のところは別として、私自身は確かにわかってくれたのだと信じています。

亡くなったの4日午前17分のことだそうです。妹に電話があって、たたき起こされました。その後のことはよく覚えていません。とにかく母はうちに帰ってきてくれて、気がつくと父も眠る仏壇の前で、私がさっきまで寝ていた蒲団で安らかな眠りについていました。納棺師さんも来てくれてきれいに死に化粧もしていただきました。

ただ、台風の予想があったので、4日の夜にはお通夜をし、5日に家族葬を行なうことにしました。なんとも慌ただしい時間でした。家族葬と言っても、お通夜には会葬を受け付けていました。結局、100人くらいの方がお通夜に来てもらいましたので、とても家族葬とは言えませんが、それが田舎でもありますね。

本来は丈夫が取り柄の母でした。風邪なども引いたことがなく、誰よりも早く起きて、野良仕事をし、ご飯を炊き、私たちの世話を焼き、そうして毎日を過ごしていました。そんな日常が突然変わったのは母が65歳になった年、2001年のことでした。農作業の合間に突然、倒れたとの連絡を受けました。骨髄腫でした。久留米大学病院の担当医の話では10年は持たないだろうとのことでした。家族の中でも1番ショックを受けていたのは父でした。

ところが、奇跡というのはあるのですね。最後の手段として、当時は認可されていなかったサリドマイドを投薬するという話が出ました。サリドマイド事件が大きな社会問題となったのは1960年前後のことでしたね。それから非認可となっていたのですが、骨髄腫には人によっては効果があると…。認可されていませんから輸入しなければならず、もちろん保険適用外となりますから、当時は高価な薬でしたが、こうなればできることは何でもということで投与をお願いしました。数年はかかりましたが、本当にそれで奇跡的回復していったのでした。

ただし、その後も乳がんや糖尿病などいくつもの病気を罹患することになります。その度ごとに立ち直っていくのでたいしたものです。確か2004年頃のことだと思います。それまで私はヘビースモーカーだったのですが、一切たばこをやめてしまいました。母の病気平癒の祈願のためでした。気休めかも知れませんが、何かせずにはいられませんでした。その後の禁煙化の方向と現況をみれば、私の方が母に感謝した方がよいかも知れません。

いずれにしてもそんな状態でしたから、よもや父が母より早く亡くなるとは思っていませんでした。父自身がまさにそうでした。父が亡くなったのが2012年の9月29日ですから、ちょうど10年目のことです。寂しがり屋の父が寂しさに耐えきれず母を呼びに来たのだろうと皆で話をしています。

そんな父の人生はまさに農業一筋でした。米はもちろんのこと、たばこ、ぶどう、みかん、いちご等々いろんな作物を植えながら生計を立ててきました。母はそのすべてにおいて主力でした。父はまさにそれらの商品作物で1番になることを目指していましたが、母はその合間になすやキュウリやトマトや苦瓜、高菜など日頃食べるいろんな作物を植えていました。とくに母が漬ける高菜漬け絶品でした。でも、この話はまたいずれ…。

父が亡くなったときに「釋直道」という法名をつけていただきました。浄土真宗大谷派では戒名と言わず法名と言い、「居士号」や「院号」はつけないのだそうです。母には「釋清薫(しゃくしょうくん)」とつけていただきました。母の名前は「キヨノ」ですから、本当に父に続いて素晴らしい法名をつけていただいたと思っています。

父が亡くなったとき、その仕事ぶりから「ひと鍬の人生」というブログを書き、「百姓生涯鍬一本」という言葉を贈りました。満80歳でした。母は満86歳でした。山深い里で育った母は、まさに土に生き、土に還った人だと思います。父とはまた違って、いろんなものを作り育てながら、私たちを育ててくれました。まさに耕すということを実践した人だと思います。だから、いまはただただお疲れさまでしたという言葉しかありません。病気にも打ち勝ち、常に笑顔を、笑いを絶やさなかったその86年の生涯は、「天晴れ」と言うしかないと思います。

今日はかみさんがそんなおふくろの得意料理の一つだっただご汁を作ってくれています。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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