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四十九日

10月30日の日曜日は、母の四十九日でした。本当は前の週だったのですが、娘たちの都合などからこの日となりました。前日には飛行機で福岡空港まで行ったのですが、長女夫婦が別の便で先に行って、レンタカーを借りていましたから、ちょっと糸島の方まで足を伸ばしました。それはまた後日にお話しすることにしましょう。

当日は午前11時にお坊さんに来てもらってお経を上げてもらいました。今回は妹と甥、姪の家族とうちの家族たちだけでしたからこぢんまりしたものです。父の時にはまだ親戚のおじ、おばも元気でしたので、葬式も壮大でしたが、今回は本当に家族だけです。

お経が終わったら、扇屋という父がよく利用していた料亭で母を偲んで精進落としです。

扇屋は、私が結婚式をあげた式場でもあります。代が変わって店の雰囲気もずいぶん変わり、料理もまたとても美味しくなりました。鰯の八女茶煮というのが名物なのですが、初七日と料理を変えるとのことで、今回は出ませんでした。残念…。

終わって納骨です。

私の故郷、福岡の八女地方では、基本的にお墓はなく、部落ごとに建てられた納骨堂に納めます。この部落は、明治になって市制・町村制が施行された際に、江戸時代の村と区別するために用いられるようになったものです。それがいつの間にか被差別部落の呼称として主に用いられるようになりました。おかげでちょっと使いづらくなったのは事実ですが、いまでも私の地方では、この江戸時代の村の単位(別に大字ともいいます)である部落を普通に使っています。

当日は天気もよくて、納骨堂もまたえらく立派に見えました。それもそのはずで、修復されて、塗り替えも行なわれていたのでした。なにせこの納骨堂ができたのは、私が生まれた年、1958年のことと父が言っていましたから。納骨堂の中は、家ごとに区切られたスペースがあって、そこには遺骨を1個しか納めることができません。納骨堂が建てられたときの当主は祖父でしたから、うちの位牌は「馬場大蔵」のままです。

父を納骨した際には、納骨堂の裏に骨を捨てる小さな入口があって、その前に入っていた祖母の骨をそこから中に落としました。ところが今回は、納骨場所の下の蓋を開けて、その下に直接骨を落とす形に変わっていました。右下は甥っ子がその作業をやっているところです。これで父の骨は過去に亡くなった人たちと一緒になってムラに帰って行くのでした。

父の骨壺は白い普通の壺でしたが、母の骨壺はなかなかきれいです。祖母は20年以上ここに入っていましたが、父は10年で母と交代です。母が父がなくなった後、10年も生きたことが奇跡でした。妹もきっと長生きするでしょうから、1番、家のために尽してくれた父が1番短かったことになります(^^;)

さて、翌日は、家族総出でたわわに実った庭の柿を採る作業です。父が亡くなった年も柿の当たり年で、やはりみんなで柿採りをやったものでした。その年もまた、今年と同様、例年になく柿が実った年でした。

ただ、この柿の木はもう中が空洞になっていて、食べる人も少なくなったので、今年中には切ってしまうそうです。もいで食べた柿は父のときと同じように凄く甘くて美味しかったです。もったいないなとは思いますが、これも時代の流れですね。柿の木にもやはり寿命があります。

とはいえ、ものごころついた頃からこの柿の木は大きかったですから、父と母の思い出、さらには祖父や祖母と暮した日々の思い出がまた一つなくなっていくのは、やはり淋しいものです。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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