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将軍継嗣問題 - 古文書講座から

東海大学エクステンションセンター生涯学習講座の古文書講座も3回目で半分を過ぎました。1回目と2回目は本学付属図書館が所蔵する「幕末風聞集」第1巻からペリー来航時の浦賀奉行戸田氏栄の伺書を読みました。今回からは第2巻の中の将軍継嗣問題に関する書状抜き書きを読んでいます。

将軍継嗣問題は、第13代将軍徳川家定の跡継ぎをめぐる幕府と諸大名間の権力争いです。紀州藩主の徳川慶福(後の家茂)を推す「南紀派」と、御三卿の一橋慶喜を推す「一橋派」に別れ、南紀派は大老の井伊直助が、一橋派は慶喜の実父である前水戸藩主の徳川斉昭に、尾張藩主の徳川慶勝の御三家に、薩摩藩の島津斉彬、土佐藩主の山内豊信(容堂)ら外様の雄藩が推していました。

この「風聞集」は伊勢松坂の商人がかかわっていると思われます。伊勢松坂は紀州藩領ですから、どうもこの書状自体は、紀州藩が幕府に探りを入れているようなのです。ただし、誰から誰に宛てたものなのかは残念ながら、わかりません。しかしながら、堀田正睦に、久世広周、松平忠固ら老中が一橋側であること、大老(井伊直助)によってすべて罷免されたことやことさら水戸の動静を探っているからしても、南紀派の情報収集活動であることは間違いありません。あくまでも情報ですから、堀田正睦が切腹となって、後から訂正されるなど、誤った情報も散見されます。

幕末の政治状況はとにかく複雑ですから、将軍継嗣問題に関する状況をPowerPointで図示して皆さんに提示してみました。周知のように、これは単に将軍継嗣だけにかかわるわけではなく、修好通商条約の締結にもかかわっています。いわゆる勅許問題です。で、色分けすれば、一橋派は攘夷派、南紀派は開国派と言えますが、老中の松平忠固や目付の岩瀬忠震などは開国派とされていますし、水戸藩は当然一橋派ですが、支藩の高松藩は南紀派など、これも一筋縄ではいきません。

それにしてもこうやって図に起こしてみると、南紀派には譜代大名がついていたとしても、一橋派が圧倒的に有利なように思われます。とにかくここに登場する人物が幕末に活躍するそうそうたるメンバーです。だからこそ、それをひっくり返した井伊直弼の凄さが逆にわかるような気がします。全体的な流れから言えば、あるいは現在の視点から見ればこの時代、開国に行くしかなかったのですが、安政の大獄もあって、直助の評価は長らく不幸なままでした。司馬遼太郎氏には逆らいますけれど、この時代、本当に世の中の流れが見えていたのは直弼だったのかも知れません。と、身びいきしたくなるのでした。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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