江戸時代の社会構造図 2つの幕藩体制

今日のつぶやき
江戸時代の社会構造図 2つの幕藩体制

幕府のしくみ、藩のしくみ、村のしくみと、いろんな図を使って江戸時代について考えてきました。図は授業で使っているもので、もちろん、オリジナルです(^^)と、ここまで来て、さて、江戸時代そのもののしくみはどうなっているんだと考えてみます。江戸時代の社会体制についてはは、徳川幕藩体制(幕藩制)といわれていますよね。これにはまず狭い意味で、幕府将軍大名との関係を軸とした政治体制をいいます。将軍は、大名に領地を宛行(あてが)うかわりに、大名は将軍に軍役を中心としてた大名としての勤めを持って将軍に奉仕するという封建的主従制を基本に作り上げられたものです。これは中国の封建制度、つまり皇帝諸侯藩屏(はんぺい)として守るという体制を援用したもので、藩という呼び方も、大名を諸侯と呼ぶのもこれに由来します。もちろん、将軍を支える武士は大名だけではなく、旗本、そして御家人もいます。大名と旗本の違いは領地が1万石以上か1万石未満かということにあり、旗本と御家人の違いは、将軍に御目見できるか否かにあります。ただし、旗本には領地(知行所といいます)ではなく、俸禄を与えられることもあります。御家人は俸禄です。そして大名は、幕府の支配下にあっても自ら家臣団を形成し、藩としてのしくみと機構を独自に作り上げて、将軍から拝領した領地を支配します。旗本の場合は、江戸に定府するのが一般的ですから、知行所と家臣はいても藩のような機構があるわけではありません。

広い意味での幕藩体制は、全国統一の過程で進められた兵農分離のもとで、武士が支配階級として将軍を中心に結集し、武士を支配身分、百姓・町人・賤民等を被支配身分とする身分制を中心とした構造をいいます。兵農分離の過程では、武士は城下町に集住し、とは切り離されることになります。また、には武士の生活を支え、村で必要な加工品を提供するために商人や職人が集住します。兵農分離は、農商分離でもあるのです。ただし、町には城下町だけではなく、宿場町湊町門前町在郷町といったものも含まれますが、これらの基本的な管轄は幕府も藩も代官となりますので、身分的には百姓です。いずれにしても、こうした構造を作り上げるために、検地によって領地を確定するとともに、検地の結果として計上された石高を領知宛行・軍役奉仕・年貢徴収などの基準とします。石高制ですね。そうした意味でいえば、石高制は耕地を基準とした江戸時代における価値表示の総体といえるかも知れません。いずれにしても幕府や藩は、直接生産者である百姓から村の責任で年貢を徴収し(年貢村請制)、その年貢米を全国市場に投入することで財政運営を行ない、それらを維持するために対外的には鎖国政策がとられるといった、その政治社会体制の全体を広義の幕藩体制というのでした。

そこで、これらの関係を図にしてみました。まだ試作段階ですので、もう少し考えてみたいと思っております。疑問や意見を聞かせていただければ幸いです(^_^)

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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