6月から7月にかけての時期というのは、何だかいろいろと仕事が詰まってしまって、なかなかブログを更新することもままなりません。もっとも、私の場合はそもそもいつも更新そのものが滞っているのですが…(^_^;)とにかく、夏休みを楽しみにしながら、もうひとがんばりの季節です。
さて、今朝、ネットでニュースを見ていたら、産経新聞の記事として「近藤勇の借用書、公開 幕府再興のため借金2000万円」という見出しが飛び込んできました。リンクをはっておきます。何でも大阪市西区の大同生命保険本社が所蔵している古文書の一つとかで、7月14日から一般公開されるそうです。もともとは江戸時代大坂の豪商加島屋宛の借用証文で、近藤勇が幕府再興のために加島屋から現在の価値にして2000万円にあたる金400両を借用したのだとか。慶応3年(1867)12月の日付があります。それにしても懐かしいですね、加島屋。1990年代に小田原市史をやっていた頃、私はとくに江戸時代後期の小田原藩財政について調べていたのですが、小田原藩の借用先として加島屋も出てきまして、当時は東京の戸越銀座にあった国立国文学研究資料館史料館(現在は立川市にあります)などに調査に行きました。ちなみに加島屋は大同生命保険の母体となった豪商です。ま、それはさておいて、この記事には写真版があって、せっかくですから解読してみました。電子書籍時代の史料翻刻の(10)でも書いた、助詞の「ニ而江茂者」など、いわゆる「てにをは」についてはすべて仮名にしてあります。また、漢字はすべて新字です。
これを書き下し文にするとこうなります。
読み間違いはないと思うのですが、何せネット上の写真ですから…。と、言い訳をした上で、この史料の記事、厳密に言えば、ちょっと解釈が違うようですね。
まず、これ、近藤勇の借用書となっていますが、正しくは土方歳三の借用書ですよね。記事では「保証人」として近藤の名前があると書いてありますので、まぁいいかなと思わんでもないかもしれませんが、実は厳密に言えばこの近藤が「保証人」というのも少し違います。「右は前書の通り相違なきもの也」と書いてあるこの部分を、江戸時代の古文書では「奥書」というのですが(いわゆる写本などの奥書ともちょっと違います)、ここで書いてあることは、あくまでも本文の内容について間違いがないことを誓うということであって、借金の保証人となることではありません。こうした借金の保証人については、だいたい借用人と同じ位置に連名で書かれてあるのが普通です。保証人にあたる者は、通常は「請人(受人)」とか「加判人」などと書かれています。村方の古文書では、このような借用人と請人(保証人)による連名の後に名主(なぬし)さんとか庄屋さんとかが「奥書」で、それこそ「右は前書之通相違なき者也」とか書いて、証文の内容に間違いがないことを保証するのですが、それは保証人となることとは違うのですね。再び厳密に言えば、この証文は、土方が(保証人を立てることなく)単独で署名捺印した借用証文で、その内容について新選組局長である近藤がお墨付きを与えたということになります。表題(タイトル)では、「預り」とありますが、内容的には立派な借用書です。
このように単独で借金をするということは、村方文書ではそう多くはないのですが、どうも御家人などではよく見られるようです。私が所蔵している古文書(インターネットオークションで購入しました)で、おそらく「鷲見」という家のものであったであろうという古文書があるのですが、この史料群の内容を検討してみたところ、鷲見家はどうも幕府御家人だと思われるのですね、これが。せっかくですから、2点ほど写真版をアップしてみます。
(1)は「鷲見芳治」が「吉田善蔵」なる人物から金2両を借りた証文で、万延元年(1860)11月付のものです。また、(2)も万延元年のこちらは4月付の証文で、「高川初蔵」から同じく金2両を借りています。万延元年といえば、明治維新まで後わずか8年という時期にあたりますね。いずれしてもこの「鷲見芳治」なる人物がそもそもこの史料群の持ち主だったようで、とりあえずこれらの史料群を「御家人 鷲見家文書」と仮に呼んでいます。
(1)は単独署名捺印の借用証文ですが、(2)では「借人 鷲見芳治」に対して連名で「加判 奥村佐平」が署名捺印しています。 もうおわかりですね。鷲見が借金の当事者で奥村が連帯保証人というわけです。よく見ると、奥村の印は墨で×をつけて消した後があります。借金を返済して、証文が戻ってきたら、こうやって印の部分や本文、借金の部分を墨で抹消したり、借用人や連帯保証人の部分を切り取ったりしている文書もよく見かけます。いうまでもありませんが、こうすることによって証文として反故(ほご)になったことを明らかにするためなんですね。ただし、(1)にはそんな後はありませんが、これが鷲見家に残されたものだとすれば、これも借金を返済して借用書を返してもらったと思って間違いないでしょう。先の土方の借用書について大同生命保険の担当者の方は、「借用書が残っているということは、借金は返済されなかったのだろう」とおっしゃったということですが、その通りでしょう。確かに借りた先に証文が伝来しているわけですから。
それにしてもこの金400両の借金を幕府再興のためというのはちょっと大げさですね。慶応3年12月は確かに大政奉還の行なわれた月です。でも、それはそうとして、新選組の軍資金として借りたことは間違いないでしょうから、それで充分だと思います。はっきり言えば、当時の財政などを検討していると、正直400両の借金というのはたいした金額ではないです。ましてや幕府再興のためというお題目をつけるとなると…。言葉の綾になるかも知れませんが、「幕府の再興を目指して軍資金として」といったところが正確なところではないでしょうか。もっとも、それが幕府の再興を目指してのものだったかどうか、それも想像の域に過ぎません。
ちなみに2000万円という金額は、金1両を5万円と見積もってのことですね。貨幣価値は時代を下るごとに低くなっていきますから、幕末であればこれくらいなかというところでしょうか。金銀銭は毎日相場がたっていて、それも地方の宿場町や湊町、在郷町なんかでもそうで、なかなか正確に計算することは難しいのですが、私は大まかに10万円から20万円で換算しちゃいます。仮に10万円としても4000万円ですか。
これもちなみに利足(今は利息と書きますが、当時は利足と書かれるのが一般的です)の月4朱というのは、月利0.4%となります。利足としての「朱」の使い方はおもしろくて、年利の場合は1%単位で月利の場合は0.1%になります。つまり年4朱といえば利足4%で、月4朱といえば0.4%になるわけです。月利4朱は年利では12ヶ月分をかけますから、0.4×12=年利4.8%になります。本来ならば、これでいいのか経済史の専門の方に承りたいところですが(^_^;)これも小田原市史に携わっていた頃に、加島屋と同じく大坂の豪商で、大阪大学の経済史・経営史資料室が所蔵している鴻池家の史料を分析していたとき気がついたことでした。
年利4%というと、現在の利息からいえばもうずいぶんと高いような気がします。でも、当時の利足というのは、年利1割5分(15%)はざらで1割(10%)なんて安い方でした。小田原藩には「八朱方」という役職があって、これは年利8%で領内にお金を貸し付けることを業務としていたのですが、実はこれ、当時としては非常に安い利足で金を貸してくれる所だったのですね。それにしても年利10%といえば、単純に計算すれば、10年借りていたら元金分丸々利足だけで渡したことに、つまり倍の金を返したことになります。江戸時代における藩の財政窮乏というのは、あるいは一般庶民でも借金に苦しむのはこうした利足の高さというのも大きな問題でした。それからするとこの月4朱というのは、実に安い利足だったのですね。
何だか批判めいたことも書いてしまいましたが、1枚の借用書を読むのも実にたいへんなことで、時代背景はもちろんのこと、当時の商い慣行やお金の知識やら、社会のしくみやら、そして何より古文書の形式や内容に関する基本的な知識、幅広い知識、それこそいろんなことを知って、それら総合して読み解いていかなければなりません。1枚の古文書からでさえ、それを読み解いて歴史を探るということが、ことほどさように奥が深いのだということを、だからこそ正確に表現することにこだわるのだということを、逆にだからこそ大げさに表現することに対しては禁欲的であるのだということを知っていただければ幸いです。
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