【コラム】 元禄大地震と宝永富士山噴火と小田原藩 Part.1


東海大学文明研究所の紀要『文明』No.19が刊行されました。既報の通り、私は文明研究所の「災害復興と文明」というプロジェクト研究に参加していまして、元禄16年(1703)の大地震と、宝永4年(1707)の富士山噴火が西相模地方、とくに小田原藩領にどのような影響を与えたかという研究をしています。その第一弾として、『文明』No.19に「元禄大地震と富士山噴火 その1-相模国小田原藩の年貢データから-」という論文を掲載いたしました。

これは元禄の大地震と宝永の富士山噴火以前と以降の年貢収集状況を検討したものです。平たく言えば、地震は人的被害を、噴火は、とくにその降灰の被害で耕地に甚大な被害をもたらします。もっとも、小田原藩では、この元禄大地震と宝永富士山噴火を財政窮乏の基本的要因と捉えていますので、私自身もセットで考えてみたいと思います。

今回の論文は、この2つの災害の前と後で、小田原藩の年貢収量がどのように変化していったかを追ったものです。災害が起これば当然、年貢の量は激減するわけですが、その後、どれくらいの年月を経てどれくらい年貢が回復していったかをデータ処理してグラフ化して検討してみたわけです。ただし、小田原藩では藩領全体の年貢収量を示すデータが必ずしも揃っているわけではありません。元禄12年(1699)と噴火直後の宝永5年(1708)、享保元年(1716)、寛延元年(1748)が単発で残っている以外は、宝暦5年(1755)から天保7年(1836)年までが連続して残っているだけです。宝暦5年以降は、『二宮尊徳全集』にたまたま収録されていたから(それだけ、二宮金次郎という人がデータを大事にしていたということの証左でもありますが…)確認できるだけです。下記はこれらをグラフ化したもので、上段が田方の年貢米を、下段が畑方の年貢永です。

図1.小田原藩領における田方年貢米の変遷

図2.小田原藩領の畑方年貢永の変遷

関東の村々では、田方の年貢は米で、畑方の年貢はお金で支払うことが多いのです。お金と言っても、永楽通宝、通称永楽銭と呼ばれる中国のお金で、江戸時代にはもう流通していなかったのですが、これを畑方の年貢を計算するための単位として使っていました。もう、詳しくは本編をご覧いただければと思います。

ここでは2点だけ主張しておきます。

元来、こうした年貢データだけを分析したものは論文としては掲載されにくいのが現状です。例えば藩政改革とかの前提としてデータ処理して概観を述べるといった使い方や、せいぜい自治体史の通史編で載せる程度です。でも、これは実際に経年でデータをとるとなるとかなりの労力を要します。このデータ自体はもう、20年以上前、南足柄市史や小田原市史などに携わっていた時代から少しずつ蓄積してきたものです。私の本当の目的は、小田原藩の行財政や民政の問題を全体像として、通史としてとらえていくことで、とくに近世後期の藩政の動向を全体的に見ていきたいと思っています。ただ、それを実現するためには、こうした基礎的なデータをきちんとどこかでまとめておきたいと思っていました。今回、ようやくそれが実現できたというわけです。

そこで2点目ですが、このデータをみても、富士山噴火後にとくに年貢が大きく減少しているとは思えないかも知れません。それもそのはずで、これは以前に、「3.11大震災に寄せて 元禄地震と富士山噴火」というblogでも書いたように、もっとも被害の大きかった領地は、幕府に返上(上知「じょうち」といいます)したうえで、幕府の手で復旧工事を行なってもらい、小田原藩は代わりの領地(代知「だいち」といいます)をもらっていたのです。小田原藩に限らず、譜代藩というのは場所によって領地の変動が激しいのですが、小田原藩の場合、その第1の要因がこの2つの災害によるものでした。参考までに小田原藩領の変動に関する表も紹介しておきます。

小田原藩領の変遷このように小田原藩領は、富士山の噴火後に197か村、実に6万6000石余が上地されてしまうのです。これらの土地は、幕府による復旧が終わると、享保元年(1716)、延享4年(1747)の2度に渡って返還されます。復旧工事が終わって返還されたといっても、大きな降灰の被害を被ったわけですから、土地質自体が変化して、元の生産力に戻ったわけではありません。だから、小田原藩にとってみれば、領地が全面的に返還された延享4年(1747)以降が問題だったのです。だから、グラフではその後、年貢が回復していくのに手間取っている様子が見て取れるかと思います。だいたい元禄大地震と宝永富士山噴火の大災害以前の基準近くまで回復するのは、18世紀半ばにかけてのことで、おおよそ100年の月日がかかったことがわかります。グラフはそんな事情を加味しながらみていかなければならないのですね。ついでながら、その後の藩領の変遷についても紹介しておきます。これらの図表はすべて、論文に収録したものです。

小田原藩領の変遷-2

 

さて、年貢グラフに話を戻しますと、これには年貢回復の画期として、①1755(宝暦5)年、②1770(明和7)年、③1787(天明7)年、④1794(寛政6)年、⑤1822(文政5)年の時期を設定しました。なぜ、そうなるのか?は、具体的に論文を読んでいただければと思います。ただ、先にも述べましたように、藩全体で考えた場合は、藩領の移動という問題がありますので、それがそのまま災害からの回復状況を示すわけではありません。これを具体的にみていくためには、また、そのために小田原藩がどういう政策を行なったのかについては、さらに個々の村々の年貢状況を検討していく必要があろうかと思います。この点については、「元禄大地震と宝永富士山噴火 その2」として公表するつもりですので、お待ちください。

なお、もうひと言。この『文明』という研究紀要は、歴史学だけの論文を収録したわけではありませんので、なるべく多くの人に読んでいただきたいと思い、引用した史料はすべて現代語に訳してみました。それも一つに冒険ですが、いろいろとご意見等お聞かせ願えれば幸いです。

馬場弘臣 のプロフィール写真
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【コラム】 元禄大地震と宝永富士山噴火と小田原藩 Part.1 への4件のフィードバック

  1. kanageohis1964 のコメント:

    こんにちは。

    すみません、PDFファイルのリンク先が「ファイルが見つかりません」になってしまいますが、東海大外部からでは閲覧不能でしょうか?

  2. 馬場弘臣 のプロフィール写真 馬場弘臣 のコメント:

    改めまして馬場です。
    東海大学のポータルサイトがリニューアルされたために、現在、論文が閲覧できなくなっているようです。また、閲覧できるようになったら、告知します。ご迷惑をおかけします。よろしくお願いいたします。

             馬場弘臣

  3. kanageohis1964 のコメント:

    こんにちは。

    遅れ馳せながら中身を拝見致しました。以前相模国の漆の歴史をブログに書いていて、河村山北の安永4年の嘆願書で漆が未だに生育しない旨を訴えているを読んで、その影響が随分と長く残っていたことを知りましたが、御指摘でも100年以上は影響が残ったという御指摘に相通じるものを感じました。

    まだ後半が残っている様ですので続きを楽しみにしております。

    • 馬場弘臣 のプロフィール写真 馬場弘臣 のコメント:

      こんばんは、ご無沙汰しまして申し訳ございません。
      それにしましても、河村山北の安永4年の嘆願書で漆が未だに生育しないとのご指摘は興味深いですね。影響はさまざまなところにさまざまな形で出ているようです。ぜひ、その全体像を明らかにしたいものです。
      ところで、川村山北の漆はそのまま漆に使うのでしょうか、それとも漆蝋に使うのでしょうか、これも興味深いですね。

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