すでにお知らせしたとおり、本日は大阪大学経済学研究科経済史・経営史資料室所蔵の「鴻池家文書」のうち、「小田原掛合控」という史料の閲覧・撮影に行って参りました。ただいま、帰りの新幹線車中です。
鴻池家は、江戸時代大坂を、というか日本を代表する豪商です。本家は代々「善右衛門」を名乗っています。岩波書店の『岩波日本史辞典』によれば、鴻池家の始祖は新六(新右衛門ともいう。慶安3年-1650年没)は摂津鴻池村で醸造業を営んだ後に大坂に出たそうで、初代善右衛門(正成。1608-93)は寛永年間に海運業・大名貸を、明暦2年(1656)に両替業を開始したそうです。2代目喜右衛門(2代目だけは喜右衛門を名乗っています)の時代には、寛文10年(1670)十人両替の一員となり、次第に両替業、とくに大名貸の比重が大きくなって、享保年間(1716-44)には海運業から撤退しています。2代の時代は岡山・広島・熊本・松江・大洲の各藩と、3代善右衛門(宗利。1667‐1736、元禄8年-1695年家督)の時代は32藩と取引があり、幕府の掛屋も務めていました。3代の善右衛門時代には、鴻池新田の開発や家訓の制定も行っています。享保年間以降は大坂商人の筆頭に位置しましたが、明治維新に際して大名貸により大きな損害を被ったものの、明治期には第十三国立銀行(鴻池銀行)大阪倉庫会社、日本生命保険会社を創立しています。
今回も一人で、吾が愛機Canonの一眼レフkissを使って撮影します。
「小田原掛合控」は、文政5年(1822)から明治2年(1869)におよぶ鴻池家と小田原藩との関係を示す超が3つつくくらいの重要な史料です。3冊からなっています。小田原藩が鴻池家と交渉を持つようになったのは、文化7年(1810)に当時の藩主大久保忠真が大坂城代を命じられ、赴任してからでした。「小田原掛合控」にそのように記されています。小田原市史をやっていた頃、今から20年近く前になりますでしょうか?1度調査に行って写真も撮ってきたのですが、朱書きの部分もあるし、もう一度しっかりと撮影したいと思っていました。
何はともあれ、近世後期から明治維新にかけては藩財政や藩政改革はもちろん、藩の全体像を俯瞰する上でも重要な史料です。正直な話、この史料がなかったら、小田原市史の該当部分はもっと貧弱なものになっていたと思います。私自身、市史で終わりではちと寂しいですから、本格的に研究をまとめなおしたいと思っています。
◎露天神社-お初天神
余談ですが、昨夜の宿は曽根崎で露天神社の近くでした。そう、近松門左衛門の曽根崎心中の舞台になった神社です。大坂内本町の醤油屋平野屋の手代徳兵衛と北の新地の天満屋の遊女お初との心中事件をあつかったもので、露天神社は俗に「お初天神」とも呼ばれていますよね。
曽根崎心中の最後、「道行」の場面は銘文として、特に有名ですね。
此の世の名残。夜も名残。死に行く身を譬ふれば。あだしが原の道の霜。一足づゝに消えて行く。夢の夢こそ あはれなれ。
あれ数ふれば暁の。七つの時が六つなりて残る一つが今生の。鐘の響の聞納め。 寂滅為楽と響くなり。…(中略)…
誰が告ぐるとは曽根崎の森の下風音に聞え。取り伝へ貴賤群集の回向の種。未来成仏。疑ひなき恋の。手本となりにけり。
この世の名残り、夜も名残り、死に行く身を譬うれば、あだしが原の道の霜、一足ずつ消えて行く。夢の夢こそ憐れなれ…。七五調の文章は、そのまま悲しみを誘います。そしてそれこそが「疑ひなき恋の。手本となりにけり。」ですからね。でも…
恋人の聖地…ですか…(^_^;) 以前に来た時にはこんな幟とかあったかしらん…と、思いながら、いや~羨ましいものです。いずれにしても、授業でも曽根崎心中の話はしていますから、ちょっとネタができました!
さて、最後はまた、大阪大学の総合博物館を見学しまして、マチカネワニに会ってきました。それにしても今日は本当によいお天気、見事な青空でした。さすがに晴れ男…自画自賛です。