7月13日、突然、今上天皇が生前退位の意向があるというニュースが飛び込んできました。明治元年(1868)9月8日の改元の詔によって「明治」になって以降、いわゆる一世一元制が敷かれましたので、天皇が在位の間は元号が替わらない。そして天皇は、崩御されることで譲位となる、と決まっていましたので、言わずもがなですが、「生前退位」という言葉が使われるのですね。もっとも、これまでの天皇の半数は亡くなる前に譲位しているとにことですから、江戸時代までは当たり前だったわけです。譲位をすれば、今上天皇は太上天皇となって、事実上、院政が敷かれることになります。
マスコミやネットでは、約200年前に光格天皇が生前譲位をして以来のことと言っています。この光格天皇はまた、現在のところ、最後に院政を敷いた天皇だったのですね。院政といえば、教科書では平安時代のこととして習いますが、事実としては江戸時代まで続いています。
そしてこの光格天皇は、歴史的にも、私の小田原藩研究の上でもたいへん興味深い天皇だったのです。まずは、光格天皇といえば、尊号事件ですね。
光格天皇(明和8年〈1771〉年8月15日~天保11〈1840〉年11月19日)は、閑院宮典仁(かんいんのみやすけひと)親王の第6王子で、諱は師仁(もろひと)、のち兼仁(ともひと)。聖護院門跡付弟となっていましたが、安永8年(1779)後桃園天皇が急死したことに伴って、女一宮欣子(皇后新清和門院)との年齢的釣合いから養子皇嗣となり、天皇となります。尊号事件とは、実父閑院宮典仁親王が、幕府の禁中並公家諸法度の規定によって、摂家などの三大臣の下の座順になることを憂いていた光格天皇が、閑院宮に太上天皇号を宣下して、親王の列から格上げさせることで問題を解決させようとはかり、幕府に伺いを立てた一件をめぐる事件です。時は老中松平定信による寛政の改革のまっただ中です。定信は、天皇の位についたことのない閑院宮親王に尊号を宣下することに反対します。つまりは幕府の規程を厳格に適用しようとしたわけですね。この意向に従って関白鷹司輔平と武家伝奏久の我信通が辞任しますが、これに替わって寛政3年(1791)関白に一条輝良、武家伝奏に正親町公明が就任すると尊号の宣下要求が再燃します。参議以上の公卿の群議という異例な方法で尊号宣下を朝廷の意志とし、もし幕府の同意が得られないならば、宣下を強行するとの態度を固めた朝廷に対して定信は、首謀者と目された正親町公明と議奏中山愛親を江戸に下向させ、尋問をくり返した上で、寛政5年(1793)年に処罰を与え、中山は閉門100日、正親町は逼塞50日、武家伝奏万里小路政房は差控え30日、議奏広橋伊光は同じく差控え20日、議奏勧修寺経逸・甘露寺篤長・千種有政の3名は「屹度相心得」という処罰が下されました。以上は『岩波日本史辞典』から引用しましたが、同辞典には「この一件によって、1世紀余り続いた幕府と朝廷の協調体制は終わった。」とあります。
朝廷の権威や権力が江戸時代の中で、とくに後期・幕末期に向ってどのような形で浮上し、力をもってくるのかについては、現在の歴史学界でも大きな問題になっていますが、最後の一文などはこれらを意識したものでしょう。また、光格天皇については、同辞典ではさらに「君主たる自覚が強く、尊号事件では朝幕関係の溝を深めたものの、寛政期以降、朝儀復興を強く推進した。復古様式で再建された寛政度内裏(寛政2年)をはじめ、神嘉殿(寛政3年)、石清水・賀茂両臨時祭(文化10年~11年)などの再興がある。」とされています。江戸時代の天皇の中では、かなり積極的な天皇であったといえるかも知れません。
その光格天皇が皇子の恵仁(あやひと)に譲位したのが文化14年(1817)で、恵仁は仁孝天皇となります。この時に、光格天皇の譲位と仙洞御所(太上天皇の御所、院の御所のことです)の修営、そして仁孝天皇の即位の儀式を取り仕切ったのが、小田原藩主で当時京都所司代であった大久保加賀守忠真です。早い話、私の研究対象である小田原藩政改革の主導者なのですね。つまり、忠真は、歴史上最後の天皇の譲位と院政にかかわっていたわけです。
この時の忠真のようすについては、肥前国平戸藩(長崎県)の第9代藩主松浦静山の記録「甲子夜話」に詳細な記述があります。これらをもとに『小田原市史』通史編 近世では、以下のように著述しました。
光格天皇の譲位にともなう仙洞御所行幸が文化一四年(一八一七)三月二二日、仁孝天皇の即位儀式が同九月二一日のことであった。この大礼もさることながら、譲位については、仙洞御所や桜町御所の修復と中宮御殿の新築なども執り行なわれており、その責任も果たさなければならなかった。とくに仙洞御所の修復に際して忠真は、領内吉浜村(湯河原町)から園庭に敷くための石を取り寄せて献上している。この時、質のよい石を集めるために、石一個について米一升が与えられたことから「一升石」と呼ばれたという。また、これらの石は一個ずつ真綿でくるんだ上で俵に詰めるという念の入れようであったといい、こうした石俵が二〇〇〇俵献上されたのであった。そのため、無事に譲位を終えた後、仙洞御所に招かれた忠真は、光格上皇自ら天皇在位中に使用していた唐の硯を褒美として下賜されている。またこれとは別に、在位中の忠真の勤功を称して、同じく在位中に着していた「御衣」が下賜されたという。
いっぽう仁孝天皇の即位については、肥前平戸藩主(長崎県平戸市)であった松浦静山の『甲子夜話』に興味深い話しが載せられている。即位の際には御所の周りを家臣が警衛しなければならなかったのであるが、忠真はその重大さを一際心得ていて、家臣の裝束や統率が優れていたばかりでなく、自らも兵庫鎖の白太刀を佩びて参内したという。兵庫鎖は、長円形の鐶を交互に通して折り返し繋いだ鎖のことで、兵庫鎖の太刀といえば、これを帯取りの部分に巻きつけた太刀のことである。ともかくこうした太刀は見たことがないと京人の間で評判となったことから、これを伝え聞いた関白の一条忠良がぜひ拝見したいというので袋に入れて差出したところ、その袋さえが古式に叶うように誂えてあったということで、忠良をはじめ朝廷までが挙って「流石関東の譜第大名よ、今の世かゝる物まで備へんとは思ひよらざりしこと」と感心したというのである。静山はこれを忠真が「文武ともに志厚く、並々ならぬこと」の例としてあげているが、例えば和歌の面でも、その作の秀逸さから「霞の侍従」ないしは「曙の侍従」と呼ばれていたことは先述の通りである。ともあれ、京都での忠真の評判は伝え聞くところによると上々であったようで、それはまた、朝廷や公家とのパイプという点でも大きな意味をもつものであったと考えられる。
ちょっと持ち上げすぎかも知れませんが(^_^;)ざっとこんな感じです。特に仙洞御所の園庭に敷き詰めたという「一升石」は現存していて、それは見事だといいます(まだこの目で見ておりません)。とにかく俵2000俵で、約11万個にのぼるとのことです。これについて今から7~8年前のことになるでしょうか。朝日新聞の京都支社の記者さんが訪ねていらっしゃって、この「一升石」の件で取材して行かれました。石を献上したことは事実です。でも…
11万個の石を米1升で交換するとなると、必要な米は1,100石余りとなります。これを仮に4斗入りの俵に直すと2750俵ですか。文化年間(1804~1818)の藩領全体における米の収穫量が4万1,353石、城付領である駿河・伊豆・相模国の領地でいうと3万128石。いくら藩財政が窮乏化しているとは言え、この頃は結構、上向いていますから、1,100石の拠出はそれほど無理ではないかも…。当時は現実的ではないと考えていましたが、それくらいはやったかも知れませんね。
光格天皇をめぐる小田原藩および藩領との関係に関する若干の考察でした。こうした著述からすると「この一件によって、1世紀余り続いた幕府と朝廷の協調体制は終わった。」と断定できるかどうか、幕朝関係にひびが入ったのは事実ですが、修復の試みもされていたわけですので、ここのところはもう少し踏み込んだ方がよいかも知れませんね。