ゼミで鎌倉を廻る


今週はどうも体調が悪くて、日曜日、やたら背中が痛いなと思いつつ、月曜日に授業が終わって帰って熱を測ると38度2分。いや~久しぶりに38度を超えてしまいました。とは言え、約束はなかなか破るわけにもいかず、火曜日には付属望星高校へ、水曜日はいつもの如く授業を済ませ、6日の木曜日は、これも約束通り、ゼミ生5名を連れて鎌倉散策です。熱はほぼ下がっているので、問題はなかったのですがね。学生に風邪をうつさないようにすることの方が気を使ってしまいます。

今回の目的は、卒論で近世鎌倉の成立に関する研究をやっている学生がいますので、そのための調査です。詳しくは割愛しますが、私どもは鎌倉といえば、源頼朝が幕府を開いて以来、一つの政治の中心地であり「都市」であると思っています。江戸時代の鎌倉は、政治都市ではありませんが、かわりに「信仰」の町、「寺社参詣」の町、平たくいえば「観光都市」だと思っているのではないでしょうか?であれば、行政的には「町場」として把握されているはずなのですが、なぜか鎌倉は、鶴岡八幡宮が所在する「雪ノ下村」をはじめ、「村」として把握されているのですね。しかも、村高には石高ではなく貫高が使われいる。「観光都市」としての鎌倉については、原淳一郎さんの詳しい研究があるのですが、要は戦国時代から江戸時代に入って諸寺社が復興するまでにタイムラグがあって、そしてある時期から「鎌倉」が主体となって、まさに江戸時代的な「名所化」をはかっていく。その間については、意外と研究もなくてはっきりしていないのでした。そこで、一つのヒントになるのが、市の文化財に指定されている「相州鎌倉江之島絵図」です。17世紀後半の成立と考えているのですが、この絵図が今、鎌倉国宝館特別展「国宝 鶴岡八幡宮古神宝」で展示されているのです。 

当日は、国宝館の浪川さんにこの他の絵図にも触れながら、丁寧に解説していただきました。ゼミ生達は、絵図の意外な大きさに驚きながら、興味深そうにみていました。当日は鈴木館長もいらっしゃっていたのですが、残念ながら来客中でお目にかかれませんでした。でも、どうのこうの言ってもやっぱり現物を見るのが一番です!

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国宝館での調査を終えた後は、鶴岡八幡宮から東の方面、頼朝の墓、荏柄天神社、鎌倉宮、永福寺跡、そして瑞泉寺まで歩いて案内しました。

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頼朝の墓はすでに江戸時代にはそう呼ばれているようです。いわゆる供養塔ですね。この付近が鎌倉幕府の正式な名称「大倉幕府」の近辺と言われていますからね。興味深いのは、この石垣をはじめとして廻りを整備したのが、近世後期の薩摩藩主島津重豪(1745~1833)だったということです。重豪は蘭学・実学好きで、しかも浪費家だったといわれていますが、幕末に向けての薩摩藩の基礎を気付いたひとりであることには変わりはないかなと思っています。島津家も源姓ですからね。

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荏柄天神社です。天満宮は学問の神様ですから、何はともあれ、ちゃんと卒論が書けて、無事に卒業できますとゼミ生たちはお祈りです。荏柄天神社の本殿は、鶴岡八幡宮を2代将軍秀忠が改築する際に、若宮を移したものとかで、重要文化財に指定されています。荏柄天神社には左の方向に絵筆塚というのがあって、名だたる漫画家が河童の絵を寄せています。見えていても訪れる人は少ないようですが、ぜひみていただきたいものです。

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アトムとドラえもん河童です。

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鎌倉宮永福寺跡です。鎌倉宮は護良親王を祀った神社で明治期に建てられました。当日は、境内で能をやるための舞台がつくられている最中でした。

2枚目の写真は永福寺跡です。ずいぶんと長い間、整備工事が行なわれていましたが、こんな感じで公開していたのですね。礎石の柱の後が結構見事です。

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最後は瑞泉寺です。この窟の後、結構、テレビの鎌倉案内とかでも紹介されていますよね。

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みんな、こちらの方面ははじめだということで、楽しんでもらえた…ようです(^_^;)鎌倉もまだまだ奥が深いですね。

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