前回のコラムでは、江戸時代中期以降の人口が停滞しているといっても、統計として取り上げている10地方のうち、7地方は人口が増えていて、東北地方、関東地方、近畿地方の3地方が減少していることを指摘しました。東北地方はさておいて、江戸という大都市を抱える関東地方に、同じく大坂、京という大都市を抱える近畿地方の人口が減少するというのは一見奇異な感じに見えます。ただ、大都市を抱えた地域で人口が減少することは実は珍しいことではないということで、イギリスの経済学者トーマス・ロバート・マルサスの「マルサスの罠」という学説を初回しました。今回はさらに、関東地方の8つの国(関八州ですね)ごとに人口の推移を見てみることにしましょう。
関東地方でもやはり天明6年(1786)に85%まで人口が落ち込み、その後はほぼ停滞して天保5年(1834)に81%と最低を記録し、弘化3年(1846)にようやく上昇に転じています。そうしてみますと、全国の趨勢と比べてみると、天明6年に急減することは一緒ですが、その後の経過が違うようですね。それに宝暦6年(1756)までは、安房国・上総国・下総国・上野国の4か国は増加傾向にあります。とくに安房国は天明6年にかけての落ち込みはあるものの、全体的にみれば増加しています。安房国は小さな国で村の数も少ないですが、湊が多いですね。それが関係しているのかも知れません。
こうした中、もっとも減少率が大きいのが、下野国と常陸国です。下野国は天保5年(1834)段階で61%、常陸国は同年に64%まで落ち込みます。また、宝暦6年までは増加していた上野国は弘化3年(1846)に75%まで減少しています。この3か国が関東地方の人口変遷曲線より下方にあります。そしてこの中でも、下野国と常陸国の減少率が突出していて、関東地方における人口の減少は、この2か国の影響が大きいと言っても過言はないでしょう。そしてこの2か国は、近世後期に人口減少によって働き手がいなくなり、耕地が荒れ放題になるという荒廃現象に見舞われいたとされています。北関東農村荒廃とよばれる現象です。この北関東農村荒廃が私の研究の出発点でもありました。栃木県は益子町史を担当していた頃のことです。それから南足柄市史を皮切りに、茨城県の龍ケ崎市史を挟んで、寒川町史、真鶴町史、小田原市史、大磯町史、横須賀市史と神奈川県の自治体史を担当しました。そうした経験からしても北関東と南関東ではずいぶん違います。
そこで相模国はと見る知、減少率という面でみていくと一番小さいことがわかります。最低でも文政5年(1822)の86%です。江戸を抱える武蔵国は、というと相模国に次ぐもので最低は天明6年の85%となっています。同じ関東であっても、北関東の下野国や常陸国と相模国・武蔵国ではずいぶん違うようです。実際に史料をみていても、北関東では人口減少に荒地の増大につれて、村の仕来りや慣行や家格といったものもかなり乱れてきますが、南関東ではそうとはいえず、かなり豊かなイメージすらあります。北関東農村荒廃がなぜ起きるのか、まだ明確な答を出した方はいませんが、都市化の影響をもっとも受けたのが、比較的寒冷地に位置する北関東であったということも十分考えられるのかなと思っています。
そう考えてみますと、現在の状況というのは、この江戸時代に起きた関東や畿内の状況が全国的規模で起きているとも考えられます。東京を中心として、名古屋、大阪、京都、そして福岡といった大都市に人口が集中するいっぽうで、地方の人口が減り続ける…、という意味においてです。江戸時代が終わると産業革命や近代化を経て大きく経済発展を遂げ、人口も停滞から爆発の時代に入ります。さて、これからの日本は…。先の命題に戻れば、AIの進歩にIoTの浸透といった科学技術の発展やインタネットへの生活の統合がどんな未来をもたらすのか。そこで社会のしくみや組織はどう変わっていくのか。ベーシックインカムもそうした未来予想の一つに過ぎません。江戸時代の人口動態からしてみれば、それはとても恐ろしくもあり、でも期待もしてみたいというのが今の本音でしょうか。