【コラム】海防の最前線  三浦半島から…


海防の最前線…既報の通り、『新横須賀市史』近世通史編 第12章のタイトルです。三浦半島にとって、江戸時代後期の海防問題はもっとも重要な問題です。いや、江戸時代後期の海防問題にとって三浦半島は最重要拠点ですといったほうがいいかもしれませんが、同じですね。ただ、もう少し範囲を広げれば、対岸の房総半島を含めた江戸湾の海防といった方がいいかもしれません。ただし、そもそも江戸時代には「江戸湾」という名称はなく、ペリーが来航した際に作成した海図に「EDO BAY」と書かれたのが最初だといわれています。当時は「江戸内海」ないしは単に「内海」といった文言が使われました。「江戸近海」といった表現もあります。いずれにしても江戸の周辺近海を意味する「江戸湾」と三浦・房総半島の先端までぐらいをさす「内海」とでは本来その範囲も違います。歴史的経緯でいっても江戸湾=東京湾でもないのです。通史編を編集するにあたっては、この辺もずいぶんと議論になりました。私は史料に準じた「江戸内海」を多用していますし、ここではそれでいきたいと思います。

◎半島の海防から海防の最前線へ

いずれにしても、この「江戸内海」をめぐる研究史が多いのも確かで、研究書一つをとっても、今やもう古典とも呼べる原剛氏の『幕末海防史の研究』(名著出版 1988年 もっともこれは全国の海防を扱ったものですが )をはじめとして、近年も浅川道夫氏の『江戸湾海防史の研究』(錦正社 2010年)、上白石実氏の『幕末の海防戦略』(吉川弘文館 2011年)といった本が出ています。私自身も自治体史で、『真鶴町史』や『大磯町史』で海防のことについて書いております。おわかりでしょうか。いずれも江戸内海ではなく、西の方、とりわけ小田原藩との関係からみた江戸内海の海防について書いた訳です。ただ、 私自身は海防のことを専門としてずっとやってきた訳ではないので、『小田原市史』の針谷武志氏執筆部分をずいぶんと参考にさせていただきましたが…。『新横須賀市史』では『逗子市史』の通史編にもずいぶんお世話になりました。とにかく、だから、私としてははじめて真正面から三浦半島―江戸湾―江戸内海の海防に取り組んだ訳です。

ただ、本当に描きたかったのは、海防政策の展開にしたがって、三浦半島の村々や人々の動員体制をはじめとする役割や生活がどのように変わっていったのか、もっといえば、政治はもちろんのこと、半島の経済や社会や生活に与えた影響を具体的に知りたかったのですが、なかなかうまくはいきません。一つは史料的な限界です。思ったような具体的な史料が少ないことと、前にも言いましたように、私自身が史料整理の現場から少し遠くなっていて、納得できるだけの史料を見切れていないということもあります。今一つは、やはり研究蓄積の多さです。例えば政策史一つをとってみても、それをまとめてみるだけでもやはり結構な分量を必要とします。

そこで決意しました。自治体史であっても、専門研究書や概説書とはまた別の意味で、三浦半島を中心とした海防政策の全体像がわかるようなものを書いてみようと。そう、これを読めば幕府や藩などの領主層から地域にいたる海防史の大枠がわかるような、自治体史としての決定版みたいなものが書けないかと。ちょっと大きな野望を抱いてみました。すると…、そこはさすがに近世部会トップの大口勇次郎先生です。「馬場さん、これは三浦半島の海防というより、まさに海防の最前線といった方がいいようなものだね」と…。ということで、第12章のタイトルも「三浦半島の海防」から「海防の最前線」へと変更になりました。

◎来航・反応・対応・政策・影響

意外なことかも知れませんが、江戸時代後期の浦賀にはじめて異国船が姿を現したのは、文政元年(1818)5月14日に来航した、ピーター・ゴルドン率いるイギリスの商船ブラザーズ号でした。嘉永6年(1853)のペリー来航の35年前、明治元年(1868)の維新のちょうど50年前のことです。もちろん、江戸時代後期の海防で一番最初に問題となるのは、18世紀末頃からのロシアの南下政策によるものです。「海防の最前線」では、その頃から一部の知識人たちに共有され始めた「海防意識」から筆を起こしています。またちょっと下の画像をクリックしてみてください。章の始まりの「小見出し」分を載せてみました。

さて、海防政策が本格的に展開するようになるのは、老中松平定信による寛政改革の時代からでした。この頃はじめて日本の近海、正確には北海道方面になりますけれど、来航したのがロシアのラックスマンでした。寛政4年(1792)のことです。この時、定信は、国王の国書の交換をともなうような正式な外交を結んだ国を「通信」の国、貿易のみを行なう国を「通商」の国として区別するという論理を持ち出して、ロシアの交易要求を拒否します。ま、だから、「朝鮮通信使」は「通信」使なのですね。ついでにいえば、「鎖国」という言葉も蘭学者の志筑忠雄が享和元年(1801)に著した『鎖国論』で使われたのが最初だといいます。

この寛政期以降の海防政策の展開をみていくと、一定のパターンみたいなものがあって、つまり、新たな異国船が来航するたびに、国際情勢の変化にもともなって海防政策を見直し、改編し、それがダイレクトに江戸内海、そして三浦半島の変化へと結びついていきます。例えば、幕府による海防体制の改編が、海防担当藩の変更となり、それにつれて領地が変更されるという形をとります。まぁ、「殿様」がくるくる変わるのですからたまったものではありませんよね。

江戸内海の海防は、寛政改革以降ペリー来航まで、具体的には6つの画期に分けることができます。今度は下のPDFファイルをちょっと開いてみてください。『新横須賀市史』近世通史編に収録した表の原本です。この6つの画期について簡単にまとめてみました。

異国船の来航と海防政策表

この6つの画期を押し並べてみると、つまり

異国船の来航(新たな事態)→幕府の反応対応→新たな政策→現地への影響

という流れでパターン化して捉えることができます。「海防の最前線」でも、各節は、このパターンを基本としながら著述しています。全体的な流れをなるべくわかりやすく理解していただくためです。

◎海岸見分、海防構想、浦賀奉行所

実は私の書いたこの第12章が一番分量が多いのですが、ことオリジナル度や内容の充実度となると、先のような事情もあってまだまだ…かもしれません(^_^;) そんな中からここでは2つだけちょっと宣伝させていただきたいと思います。

一つは、天保10年(1839)に行なわれた幕府目付鳥居耀蔵(ようぞう)忠耀(ただてる)と伊豆韮山の幕府代官江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)による海防のための海岸見分と、海防構想の報告書の提出です。鳥居といえば、のちに老中水野忠邦による天保改革において江戸町奉行として徹底した弾圧を行なったことから、耀甲斐(当時は甲斐守に補任していました)=妖怪と恐れられたという、幕府守旧派の頭目とも評される人物です。対して江川は、西洋流の砲術や技術にも明るく、高島秋帆や渡辺崋山らとも親交の深い、開明派の代官として名高い人物です。要は正反対の派閥として位置づけられている訳で、この時の見分もともすれば守旧派と開明派との対立の構図として捉えられたり、報告書にしても天保改革に際してどちらの意見が採り上げられたかといった、政治的問題に収斂されてしまう傾向にあったように思われます(佐藤昌介『洋学史研究序説』岩波書店 1977年)。

でも、この問題をはじめからそうした政治的側面として先入観をもって取り上げない方がよいと私は思います。幕府目付に伊豆代官という、立場は異にしながらも政策の最前線にたつ役人が果たしてどのように考えたのか。現地を実際にみてどのような構想を持ったのか。その思想の違いを考慮したとしても、何よりそこには、当時の三浦半島の海防における戦略的位置づけを知ることができる第一級の証言があるのです。ですから、その構想のどれが実現したかではなく、その構想そのものをきちんと分析してみることこそが重要なのだと思うのです。と、思って書いてみました。

現実をいえば、その後、アヘン戦争が起こって、天保改革へと入っていきますから、かなり折衷的な海防政策になっていきます。でも、天保改革にともなう海防政策の転換はかなり大規模なもので、三浦半島における日光社参の警備体制が、海防の軍事訓練のようであったことは「三浦半島の道と交通(3)」で触れたとおりです。さらにここで重要なことは、小田原藩が伊豆半島の警備に廻されたことで、三浦半島から相模湾を越えて伊豆にいたる海岸の海防体制が構築されていったことです。それは天保改革を契機としてその後に継続していくことになるのですが、三浦半島から西への海防体制の広がりについても通史編では触れています。

今一つは、弘化3年(1846)ビットル艦隊の来航にともなう浦賀奉行所の改革についてです。大規模な本格的軍艦の来航に大きなショックを受けた老中阿部正弘を筆頭とする当時の政権は、やはり大きな海防体制の改編に着手します。浦賀奉行所でも軍艦を建造するなどの計画もあるのですが、ここでの大きな転換は、浦賀奉行所が異国船の応接の場として正式に位置づけられたことでした。それまで異国船の対応はすべて長崎が窓口でしたから、江戸の近郊で応接を許可するということは実に画期的なことなのです。そのため遠国奉行としては末席であった浦賀奉行の席順(格)が、長崎奉行の次席に格上げとなります。それにともなうさまざまな改革については、嘱託の神谷大介氏が精力的に史料を集めてくれました。本当に感謝です。

第6章の三浦半島の道と交通とちょっと異なって、ここでは第12章 海防の最前線 を書くにあたっての裏話のようなものを紹介しました。しかも、ブログの執筆量としては少し長くなってしまいました。おかげさまで、手術後の経過も順調で、明日予定どおり退院します。ということで、本日は自分でそのお祝いを兼てということでご了承いただければと思います。誰に了承を?とつっこまれたら困りますが…(^_^;)

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