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唐津城は絶景の地なり!

今日から新年度ですね。卒業したゼミ生たちも入社式を受けているかなとちょっと気になりながら、私自身は、福岡は八女の実家に先月の30日から帰省しております。2年半ぶりです。2年半ぶりにようやく母に会うことができました。施設に入っているのですが、元気な姿をみせてくれました。

書きたいことはヤマほどありますが、今日は妹と大姪と一緒に訪れた佐賀の唐津城、別名舞鶴城を見にいきました。今回の帰省は唐津城を見にいって、写真を撮ることも目的のひとつでした。

小田原藩西主大久保家は、2代忠隣(ただちか)の代、慶長19年(1614)に改易となりますが、孫の忠職(ただもと)が武蔵国騎西(埼玉県加須市)2万石の藩主として大久保家の家名を継ぐことを許されます。ただし、忠職自身は蟄居の身だったのですが、寛永2年(1625)に罪を許され、同9年(1642)には3万石を加増され、美濃加納藩(岐阜県岐阜市)5万石に移封されます。さらに同16年(1639)にも2万石加増の上、播磨明石藩(兵庫県明石市)7万石に移封されます。ここで現在刊行をめざしている「吉岡由緒書」吉岡家の初代実疑(さねよし)が仕官したのでした。

忠職はさらに慶安2年(1649)に1万8000石加増されて、肥前唐津藩8万3000石に移封されます。唐津城を訪ねたのはそのためでした。「吉岡由緒書」には唐津城の写真も入れたいと思っています。それにしても唐津城はまさに桜の季節でした。

見事な桜の向こうに天守が見えます。ただし、この天守は模擬天守です。ただし櫓・門・石垣・堀は復元とのことでした。少し写真を並べてみましょう。

右下の「唐津城」の幟旗にある家紋が大久保家の家紋です。それにしても実際、唐津城に行って驚いたのはそのロケーションでした。

右上は、松浦川が唐津湾に流れ込む河口付近の写真です。左下には手前に港があって、その向こうにある白浜が唐津の景勝地で有名な虹の松原です。そして右下が唐津湾に浮かぶ大島です。川から海へ…。玄界灘につながる絶好の物流地点ですね。そういった位置にあったことは地図と知識では知っていましたが、実際に現地に行ってみるとやはり違います。唐津城 この川から海に面する突端の小山に位置するまさに平山城の典型のようなところで、北部九州の要地であることが否が応でも体験できます。まさに絶景の地でした。

大久保忠職はこの地で寛文10年(1670)に亡くなりますが、その後は忠隣の孫で忠職の養子となった忠朝が継ぎます。忠朝は延宝5年(1677)に幕府老中になると、翌6年に下総佐倉(千葉県佐倉市)に移封となり、さらに貞享3年(1686)に相模小田原に10万3000石で移封となったのでした。小田原の地を拝領することは、大久保家にとって忠隣の代に改易となった父祖の地に復帰することを示していました。まさに念願叶ってのことでした。こうして大久保家は、関東の西の守り口である小田原城を代々受け継ぎ、老中を輩出する家柄としての地位を確固とするのでした。

ところが元禄16年(1703)に起きた大地震と、宝永4年(1707)の富士山噴火による被害によって苦難の道を歩くことになります。後年、寛政4年(1792)の史料になりますが、幕府に提出した小田原藩の嘆願書によれば、11万3000石を拝領する現在より8万3000石であった唐津藩時代の方が財政的にはよっぽど豊かだったと述べています。小田原の地もまた海路と陸路の要衝ではありますが、唐津城に来てみてその意味を強く体感することができました。領地を調べていけば年貢のことなどももっとよくわかると思います。その背後には筑後平野から続く一大穀倉地帯である佐賀平野が広がっているのですから。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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