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鎌倉市文化財指定史料調査

本日23日は、鎌倉市の文化財専門委員として、今年度指定予定の史料調査でした。10時30分に鎌倉国宝館に行ったのですが、それにしても暑い1日でしたね。

今年は雨が多く、スッキリしない天候が続いただけに、小町通りも元気です。ちょっと早かったので、小町通りのコメダ珈琲でアイスコーヒーをちょっと。と、思ったら、この時間ではトーストがつくとか、ダイエットしようと思って…、朝ご飯も食べてきたのですが…、つい注文してしまいました。ま、そんなに大きなものではないですけれどね。

鶴岡八幡宮の一の鳥居も段葛も神社自体も心なしか活き活きしているように思えます。

こちらが国宝館ですが、1枚目は展示室で、2枚目が事務室兼収蔵庫です。校倉風の建築物で、国宝館自体が国の有形文化財に指定されています。今日調査するのは、鶴岡八幡宮が所蔵する絵図です。表題は、「鶴岡御神領往還并谷々小道分間図」という絵図で、縦300cm、横414cmの巨大なものです。縦80cm、横41.4cmの和紙を横に16枚、縦に8枚継いで作成されています。全体は、北鎌倉を除いた旧鎌倉一帯を描いた絵図です。谷々と書かれているように、とにかく谷がしっかりと描かれており、鎌倉が天然の要塞であったようですがよくわかります。その他にも往還道や小道、川などはもちろんのこと、寺院に神社、家並みも書き込まれています。鶴岡八幡宮の境内は「御社内」と書いてあるだけで、社殿などは描かれていません。「御神領」の範囲はどうやら赤い線で描かれている範囲のようです。鶴岡八幡宮は雪ノ下村にあって、極楽寺村や大町村、浄妙寺村、乱橋・材木座村にも領地がありますから、この御神領はどうも「社領百姓」や「社家」が住む地域を示しているようです。雪ノ下村には、嘉永3年(1850)2月の段階で、社領百姓65軒に社家が38軒あります(青山孝慈・青山京子編『相模国村明細帳集成』第1巻、岩田書院)。まぁ、ここら辺のことは、文化財指定申請書にしっかりと書いていこうと思っています。

あ、そうそう、この絵図の成立年代ですが、年月などの記載はありません。ただ、英勝寺の嘉永年間(1848~14)の絵図に木の描き方とかよく似ているそうですから、嘉永年間からそう違わない幕末のものと考えて間違いないでしょう。また、この絵図には「図式曲尺五分十間、五厘一間、三寸一町」と書かれていて、縮尺も正確なようです。

鎌倉は「武家の古都」を謳って、残念ながら世界遺産に登録することができませんでしたが、そもそも「武家の古都」と呼ばれるほど、中世の遺跡が残っていないことが問題とされました。鎌倉幕府は大倉という地名の場所に置かれていて、大倉幕府と呼ぶのですが、その場所ですらはっきりしないのです。現在の鎌倉は、戦国時代に戦乱で荒廃した後、江戸時代に寺社の再建と村々の復興が実施されます。村々と言いましたが、江戸時代の鎌倉は「町場」≒都市として成立したのではなく、「村」の集合体として成立しているところに一つの特徴があります。そうした江戸時代の鎌倉をしっかり検証しなければ、鎌倉の現在も明らかにできないと思っています。それにしてもおもしろい地域です。

絵図はまだ未公開ですから、当日、学芸員の実習に来ていて写真撮影を手伝ってくれた学生達の後片付けのようすで絵図の大きさを推測していただければと思います。絵図についてはまた報告します。

 

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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