黒羽藩主大関増裕の改革と下之庄 レジュメをアップします!
黒羽藩主大関増裕
黒羽藩は、下野国那須郡黒羽を居所とする1万8000石の外様小藩です。石高からすれば小さな藩ですが、大関家は、那須大田原家(大田原藩、1万1417石)と並んで、中世那須衆の一端を担う存在から、江戸時代にも続いた名門です。江戸開幕(かいばく)の慶長8年(1603)の時期に当主であった資増(すけます)から数えると、増裕は15代目の藩主になります。
大関増裕は、天保8年(1837)12月9日に、遠江国横須賀藩(静岡県掛川市)3万5000石(譜代藩)の藩主西尾忠善の嗣子(しし)忠宝(ただとみ)の次男として生まれます。初名忠道、ついで忠徳と改めました。文久元年(1804)25歳で養父の黒羽藩主大関増徳(ますよし)のあとを継ぎぎます。家督相続の翌文久2年には講武所奉行となり、幕府の洋式軍制の導入にともなって、新設された陸軍奉行に任じられました。その後も慶応元年(1865)には海軍奉行に、同3年には若年寄に任じられることになります。
それにしても、外様小藩を養子として継いだだけの増裕がなぜ、これだけ幕閣の要職を歴任したのか。藩主となるまでの経歴が一つの鍵を握るとおもわれますが、詳細はわかりません。とくに洋学に秀でていたことが予測されるが、その不慮の死とともに増裕にまつわる大きな謎です。
増裕の改革は、文久2年(1862)における幕府の軍制改革に準じた改革で知られています。初代の陸軍奉行ですから、それはそうですね。いわゆる歩兵、騎兵、砲兵の三兵による西洋式軍制の導入です。その過程で、猟師を鉄砲隊に組織した「郷筒組」や農兵の取立が進められていきます。郷筒も農兵みたいなものですが、黒羽藩では分けていますので、これに従います。ただ、下之庄の村々で見た場合、郷筒組は確かに存在しますが、農兵については得てして史料が少ないようです。
下之庄の村々と勧農役
黒羽藩領の下之庄は、居所の那須郡黒羽周辺の村々64か村、1万4,338石6斗7升を上之庄と称するのに対して、芳賀郡益子村を中心とした6カ村、3,661石3斗3升のことをいいます。上之庄と下之庄を合計すると1万8,000石になるわけです。ただし、これは表高もしくは朱印高という幕府によって与えられた領地の石高です。これに対して実際の石高を裏高、実高などと称します。『旧高旧領取調帳』によれば、下之庄の実高は6か村合計で4,559石4斗3升9合4尺となりますが、通称で「五千石」と言われていました。
今回の講演では、下之庄の民政改革を重視して取り上げました。人口増加策、耕作者増加策としての新百姓取立に入百姓政策、耕地の新開発に荒地の再開発、そして殖産興業策などです。殖産職業策にはもちろん、瀬戸焼すなわち益子焼の振興が含まれています。
興味深いのは、ここで「勧農役」と称する役職が登場することですね。近世史ではこれを中間層もしくは中間支配機構などと呼びます。勧農役は読んで字の如く、農を勧めるわけですが、さて具体的には何をやったのか?というのが主な内容でした。ただ、ここら辺ですでに時間を大幅に使ってしまい、最後の下之庄五千石百姓騒動には触れることもできませんでした(^_^;)反省です。
それにしても、なぜ、これを論文にしなかったのだろうと今さらながらに思うのでした…。
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