続・将軍継嗣問題
NHK BSプレミアムのザ・プロファイラーという番組を制作されている会社のディレクターの方が研究室にお見えになって、何でも今度「井伊直弼」について取り上げるので、話しを聞きたいとのことでした。「おんな城主 直虎」との関係で取り上げるのだそうです。何度も言いますように、今年は大政奉還150周年でもありますからね。
正直、私自身は井伊直弼はもとより、幕末維新の政治史を研究しているわけでもありません。ですが、今度翻刻しようと思っている「吉岡由緒書」は幕末維新に関する記載がもの凄く豊富ですから、ちょうど少し勉強し直そうと思っていた矢先でした。それでユニコムプラザさがみはらでも古文書教室でも将軍継嗣問題を扱ったみたのでした。どうもその時の、このサイトの記事をご覧になったようです。
そこで、今回は徳川家の血統図を作成してみました。良く言われているように、御三家紀州藩主の徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派は、「伝統的血統論」を主張し、御三卿一橋家の慶喜を推す一橋派は、幕府と雄藩との連合体制あるいは統一連合体制を組んでいたといわれています。そこで少しその辺を整理してみようと思ったわけです。これがその図です。
慶福は、家斉の孫にあたり、しかも紀州藩を次いでいるわけですから、血統としては一番ですね。家慶はおじ、家定は従兄弟にあたるわけで、家定も慶福を推していたといわれています。
だいたい8代将軍吉宗以降は、御三卿を含めて吉宗の血筋が将軍職を継ぐ傾向にあります。家斉も御三卿の一橋家から将軍となっていますからね。これに対して、慶喜は、確かに一橋家に養子には入っていますけれど、水戸藩の徳川斉昭の七男ですから、それまでの系統とは少し外れることになります。でも、御三家から御三卿に養子に入ったわけですから、十分資格はあります。ただ、慶福に比べるとさすがに弱い。逆にそうしたしがらみを考えずに継嗣を選ぶとなると、血統的にも慶喜は十分です。慶喜は優秀だったとか、賢明だったとか言われていますが、案外、そうした意味で連合体制を模索する連中に担がれたのかも知れませんね。一橋派は、それこそ攘夷派から開国推進派まで結構、幅が広いですから、これまた案外、適任だったと言うことかも知れません。攘夷論者であった斉昭も、幕政を動かすには自分の息子を将軍にするのが一番ですから、そうした意味では、多少主張を抑えてもと思ったかも知れません。
いずれにしても、一橋派の中で鍵を握っているのは、越前福井藩主の松平慶永(春嶽)だと思っています。そもそもそうした諸藩との協調路線をとったのは老中阿部正弘でしたから、このラインが基本線なのでしょう。残念ながら、阿部正弘は安政4年(1857)に亡くなってしまいますから、修好通商条約の際にはもういません。そう思って、先の将軍継嗣問題図もちょっと書き直して見ました。これも掲載しておきます。
もし、お使いになりたい方がいらっしゃいましたらご連絡ください。その前に、ここは違うよ!というご意見があれば、これまたご連絡ください。
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