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お題No.012の回答 質地と小作

let’s古文書!なんと、約1年ぶりの再開です(^^;)もし、お待たせしておりました方がいらっしゃいましたら、誠に申し訳ございませんでしたm(_ _)m

古文書はこちら、上野国多野郡三波川村(現・群馬県藤岡市)のものでしたね。1枚の証文の中に2種類の証文が書かれています。

 

お題No.12の筆耕

【書き下し文】
手形の事
一中ふねの畑残らず金子五両三分弐百文請け取り、質物に相渡し申す所実正也。年季の儀は中七年に相定め、卯の拾月より戌の十月迄入れ置き申し候。年季の内は御 公儀様御年貢・御役等は我等急度相勤め申すべく候。この田地において余方よりかまい御座候わば、我等罷り出で申し分ケ仕るべく候。年季相極り候わば、本金は押し切りに御座候間、田地御返し下さるべく候。後日のため仍って件の如し。

小作手形の事
一中ふね畑残らず御年貢壱年に壱両宛、上木共にひかゑ申し候。年々御年貢拾月前に相済し申すべく候。若し遅々申すにおいては田地・作物・上木共に御取り上げ成さるべく候共、一言の違儀申す間敷く候。仍って件の如し。

【解説】
これには1枚に2点の証文が書かれています。何れも延宝3年(1675)10月8日付です。17世紀の後半ですから、江戸時代でも早い時期の証文ですね。

1点目の「手形の事」は、いわゆる質地証文です。土地を質物(しちもつ)として差し出してお金を借りるわけです。借主は勘右衛門では5両3分と銭200文を借りていますが、宛先がありません。年季は卯の年より戌の年まで中7か年です。江戸時代の場合、たとえば「7か年」と言えば、通常は起点となる年から1として数えはじめますから、実質は中6か年、つまり7か年は6年後のことになります。この証文ではわざわざ「中7か年」と断っていますね。間が7年ですから、これだと7年後のことになるのですね。こちらの方が現代の感覚と同じですね。
いずれにしても、この年季の間に元金と利子を含めた全額を返すことができなければ、土地は貸主に戻って来るのですが、返せなければ、いわゆる質流れになります。これを「流地(ながれち)」と言います。
なお、この証文では、借主、つまり土地を差し出した方が年貢や諸役を勤めると言っています。質に出している期間は、その土地はお金を貸している方が管理しているわけですから、差し出した方としては、質に出している土地の年貢や諸役まで勤めなければならないとなるとかなり苦しいですよね。こうした質地の形態を「頼納質」と書いて「たのみおさめしち」もしくは「らいのうじち」と読みます。そこまでしてお金を借りたいわけですが、これだと土地が帰ってくる確率はさらに低くなります。ですから、幕府は法律で頼納質を禁止します。それでも慣行として行なわれているわけですが、年が降るにしたがって頼納質はほとんどみられなくなっていきます。

2点目には、「小作手形の事」とあり、1点目の質地証文の土地に対して小作を請け負ったことを証明したものです。小作料として、金1両と上木を納めることとしています。ここにも「御年貢」という文言が出てきますが、この場合の「御年貢」は小作料を意味します。小作人は庄助で、この土地の元々の所有者であった勘右衛門とは別の人です。これを「別小作」と言います。もし、勘左衛門がそのまま小作人になった場合は、「直小作(じきこさく)」と言います。考えてみれば、1点目の証文には利子の記載がありません。庄助が払っている形になっていますね。

このように1枚の古文書にもさまざまな意味が込められています。それらの意味を理解した上で史料を読んでいかなければならないのですね。それにしても勘右衛門さん、この土地を無事に取り戻すことができたのでしょうか?まず、無理だったのでしょうね。だから古文書は残されるわけですから(^_-)

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投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
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