お盆 墓参り 戦争の跡

今日のつぶやき
お盆 墓参り 戦争の跡

朝は雨が降っていたかと思えば、お昼頃にはすっかり上がっていつも通りの陽ざしとなり、またまた雨です。と思ったら、夕方にはまたいつもの陽ざし。なんともめまぐるしいお盆の入りです。ちょうど陽ざしが眩しいお昼の合間にお墓参りに行ってきました。

龍興山浄雲寺

お墓は近くの曹洞宗龍興山浄雲寺にありますから、そうそう時間はかかりません。取り急ぎ、草取りをして、花を飾って、義父が大好きだったお酒をまいて、まいたらまいたでしっかりと水で流します。まぁ、一般的なお詣りですね。

さて、お墓といえば、実は、戦争の足跡がよくわかる場所なのですね。だいたい先祖でなくなった方があれば、墓石の横か墓誌に書いてあります。墓石や墓誌を新しくしても戦争で亡くなったことの記述は、相続する人がいる限り書かれていきます。関東では江戸時代の村の範囲、明治以降では、「部落」とか「大字(おおあざ)」という範囲に複数のお寺があるのが普通ですので、それらを廻ってみれば、戦没者の記録をとることができます。言わば、「村の戦争の記録」ですね。もっとも、「部落」といえば、最近は被差別部落のことを指すのが一般的になりましたし、「大字」にいたっては、若い人はほとんど知りません。いずれも明治になって新しい行政区を作る際に、これと区別する際に江戸時代の「自然集落」(と表現されます)=村を「部落」もしくは「大字」と呼ぶようにしたのですね。ちなみに「字(あざ)」は大字の中のもっと小さな集落もしくは地域を示します。

こたらは昭和19年(1944)6月に召集されて、翌20年7月10日にフィリピンのセブ島において、36歳で戦死されたことが記されていますね。終戦のほぼ1か月前です。これは新しく建てられたお墓ですが、こういう記述をあちらこちらでみることができるわけです。

こちらは日露戦争で戦死された方のお墓で、昭和5年(1930)の27回忌にあたって建立されたお墓です。浄雲寺の墓地ではもっとも大きなお墓というか慰霊碑になります。日清・日露の頃はまだ戦死する人は少なかったので、葬儀も盛大でしたし、こうした大きなお墓が建てられました。日清戦争の際には、県に主催で、楽団まで出ています(厚木市林自治会文書)。それが日中戦争からアジア太平洋戦争になると、戦死者も多くなりますから、それぞれの家のお墓か墓誌に書かれるようになるわけです。お墓参りの際に、そうしたお墓にちょっとお詣りするのもよいかも知れません。

迎え火を焚いて、ご先祖様をお迎えします。最近は迎え火をやるお宅も少なくなりました。と…実は福岡の実家では迎え火の風習はありません。お墓も納骨堂ですから、忠魂碑が建っているだけです。お盆にしても新暦でやるところもあれば旧暦もあります。地方によってさまざまですね。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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