誰かさんと誰かさんが麦畑~♪

今日のつぶやき
誰かさんと誰かさんが麦畑~♪

最近、YOASOBIというグループの歌がいいなと思っています。昨年の紅白歌合戦で「夜に駆ける」を聴いて、疾走するような軽快なリズムと、ちょっと無機質なボーカルの歌声がなんとも心地いいなと。「ハルジオン」や「群青」「あの夢をなぞって」とか(それくらいしか今のところ知りませんが ^^;)いいです!

さて、前回は話の勢いで、昭和40年(1965)頃の大学近辺の嫁入り風景の写真を紹介しました。以前、私は学園史資料センターという部署にいまして、そこで創立者松前重義や大学関係はもちろん、短大・付属高校、中学校、小学校・幼稚園と全方面に渡って資料を収集してきました。そうした過程で提供してもらった写真の一つでした。今は資料センターの仕事からは外れましたが…。

それにしても私が大学に入ったのは、昭和53年(1978)のことでしたが、初めて湘南キャンパスに来て驚きましたね。海が見えないどころが、周りは田んぼばっかり。これでは私の故郷、福岡の八女と変わらないじゃないですか。いや、田んぼの広さからいえばもっと広い。それもそのはずですね。相模平野のど真ん中に建っていた校舎なのですから。何でもこの平塚市は北金目の土地で、畑地の部分をほぼ買い取ってキャンパスにしたとか。そのスケールも凄いです。

キャンパスの竣工が昭和37年(1962)のことですから、東京オリンピックの2年前ですね。こちらはちょうどのその後の年くらいの写真になるでしょうか。

こちらは小田急線鶴巻温泉駅から大学に向かう道すがらです。かぶとむしと呼ばれたフォルクスワーゲンでしょうか?自動車自体が時代を感じさせますね。校舎も1号館と2号館しか建っていません。それにしても道沿いに広がる麦畑がなかなか壮観ですね。

実はこうした麦畑の風景にはカラー写真も残っています。

2号館を南東方面から撮った写真でしょう。麦の青々として(実際は緑色ですが…)見事です。相模国の一大穀倉地帯相模平野は金目川と相模川の流れから産み出された穀倉地帯です。米はもちろんのこと、江戸時代から麦もまたたくさん生産されていました。

とくに相模平野から産出される小麦は江戸時代から良質な小麦として知られていて、銚子や野田の醤油醸造業者らが競って購入していたそうです。編纂を担当した大磯町史では、大磯から野田の茂木家にあてて小麦を積み出した記録などが残っています。野田の茂木家といえば、高梨家と並ぶ現在のキッコーマンの祖にあたる家の一つです。だからキッコーマンの社史にも、少しですが相州小麦のことが書いてあります。

今はとんと見なくなった麦畑の風景ですが、少なくともこの頃までは連綿と作り続けられていたことが分かる貴重な写真です。大学の歴史も地域の視点からみるとまた一段と興味深いですね!

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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