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母の初月命日

ひと月が経ちました。今日4日は母の初めての月命日です。

母は福岡県八女市黒木町小屋山中というところで生まれました。「市」とありますが、これは平成の大合併で八女市に編入されただけで、黒木そのものも山の中ですが、小屋山中は文字通り、テレビ朝日の「ポツンと一軒家」に出てきそうな山の中です。もっとも一軒家ではなく、集落で結構、家もありますが…。ちなみに黒木は女優の黒木瞳さんの出身地で、ここの従弟は同級生だったと言っていました。

こちらは母の実家の庭先の風景です。この建物はシイタケを乾燥させて干しシイタケを作るための小屋です。その下は坂になっていて、お茶が植えてありますね。本当に山の中なんです。このシイタケ小屋の左側も崖になっていて、こちらで栽培されていたインゲンマメがとにかく美味しかったです。母の実家からは春はタケノコ、シイタケ、夏はインゲンマメ、秋は大きな栗などいろんなものを送ってもらっていました。

お盆や正月で母が里帰りする際に、タクシーに乗ると途中までしか行ってくれなくて最後は歩きでした。もちろん、今は車で普通に行けますが、ガードレールもない細い道をあがって行きます。「よく来たね」という言葉を私たちの地方では「よう来らしゃったね」と方言で言います。でも、ここでは「よう登って来らしゃったね」と言っていたjほどです。

そんな山の中で、母は小学校や中学校には片道4キロの道を歩いて行っていたとよく言っていました。4キロと言っても山道ですから、それはそれはたいへんです。母はそんなところで鍛えられてきましたから、とにかく丈夫で、風邪一つ引いたことはなかったです。反面、私は身体が弱くて、小学校に入る前、幼稚園に通っていた時に慢性腎臓炎になってひと月入院していました。入学したときの学校案内の際には、担任の先生におぶってもらって廻ったほどでした。それからも小学校時代は、リューマチに心臓肥大に脚気に…とありとあらゆる病気をして、それこそ病気のデパートでした。それもすべて扁桃腺からきていたのですが…。

だから母は私のことをとにかく心配していて、こちらに出てくるときも何かにつけ心配していました。自分が丈夫なだけに…です。だから、65歳で骨髄腫で倒れたときは本当に驚きました。前にも書きましたように、それから乳がんや糖尿病などを患いましたが、とにもかくにもどんな時にも明るく、元気でしたね。乳がんで切除した際も風呂から上がって「切られのヨサ」とか言っていました(^^;)

そんな母が3度だけ涙を見せたことがあります。妹が結婚するときと、母の母、つまり祖母が亡くなったときです。祖母が亡くなったのは大学生の時で、私はすぐに飛んで帰ったのですが、葬儀には間にあいませんでした。ただ、私の姿を見るなり「おっかしゃんが死なしゃった」と言って、私の胸で泣くのです。そんな姿は見たことがありませんでしたから、とまどいながら、私も泣きました。

もう一つは私が結婚すると言ったときです。「これでもう弘臣は帰ってこん」と言って泣かれました。それは辛かったですね。でも、結婚してからは、かみさんとも仲が良くて、これも前にも書いたようにいろんな田舎料理を教えてくれました。

母の話になると話が尽きませんので、また次の月命日に少しずつ思い出していきたいです。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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