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宇和島城から松山城を攻む

昨日、四国から帰ってきました。帰りが遅かったので、今日のつぶやきでは昨日のことをつぶやきます。まずは一昨日のことからです。

一昨日は、時間に追われてつぶやきを止めましたが、これは道後温泉本館に入湯に行っていたためでした。道後温泉のホテルに着いたのが午後7時頃。もうその頃は本館を取り巻くように人、人、人、長蛇の列!ホテルの浴場にも入りましたが、やはり泉質が違います。ま、別館の椿の湯あたりでもいいっか…と思っていました。でも、午後10時を過ぎたら空くかも…とホテルの従業員の方から聞いていましたので、とりあえず行ってみると、どうにか入ることができました。大きな釜の2か所からお湯が出ている湯殿が東と西に一つずつ。趣が違いますね。

 

さて、昨日は朝食もそこそこに宇和島まで車を飛ばして、宇和島城の見学です。ここは仙台藩の分家伊達家10万石余の城です。家格は准国主(国持)。国主の家柄は本家の伊達家や長州藩毛利家、薩摩藩島津家、仙台藩伊達家など18家ありますが、准国主は3家だけで、しかも分家で准国主はこの宇和島藩伊達家だけです。天守は3階3層でやや小ぶりでしたが、バランスの取れた瀟洒な天守閣でしたね。ここには全国で唯一、障子建具が残っています。

宇和島藩伊達家最後の藩主宗城(むねなり)は、王政復古後に議定に名を連ねるなど、幕末の政治に深く関与した人物です。松山藩もまた幕末維新期の騒乱に翻弄した藩でした。

ということで、とって返して、松山城に向かいます。駐車場を捜すのが結構たいへんでした。松山城は伊予灘に面しているのですが、高台にあって、登城するにはロープウェイかリフトを選びます。私はリフトを選びました。

いや、それにしても驚きました。松山城は、親藩大名久松松平家が治める城で、正しく四国の押さえの役割を果たしていたと言われています。城自体は、天明4年(1784)の落雷で焼失したものを、嘉永(1848)から安政元年(1854)にかけて再建されたものです。ですから、城自体は比較的新しく、それほど「飾って」はいないのですが、雲一つない青空とあいまって、その黒い板壁のたたずまいが何とも言えず美しいのです。石垣とのバランスといい、天守も3階3層とこれも大きくはありません。質素な造りながらも、それが却って城としての美しさを象徴しているようです。

松山藩は、親藩大名ということもあって、長州戦争の際にも周防、屋代で奮戦しますが、敗退。また、藩論も幕府につくか新政府につくかで揺れていました。鳥羽・伏見の戦いではついに朝敵の汚名を着せられて、一時、土佐藩に城を占領されます。何だか、小田原藩と似たところがあって、同情を禁じ得ません。

全国には12の天守が現存していますが、そのうちの3分の1、4城が四国に集中しています。今回はその3か城を見てきました。結局として、中心は幕末維新をめぐる旅でしたね(^_^;)

くり返しになりますが、今年は大政奉還から150年です。今年中に何としても二条城を観に行きたいですね。前回は、唐門が修復中でもありましたし…。

投稿者プロフィール

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!
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