貨幣と紙幣と六文銭

今日のつぶやき
貨幣と紙幣と六文銭

六文銭と言えば、言わずと知れた真田氏の家紋ですね。昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」を思い出しますね。もともとは、仏葬の副葬品としたもので、冥銭(めいせん)あるいは六道銭(ろくどうせん)とも言うそうです。いわゆる三途の川の渡し賃が銭6文ということですね。年配の方は、小室等さんや上條恒彦さんらのフォークユニットを思い起こす方もいらっしゃるかも知れません。

ということとは別に関係ないのですが、現物を見せるのは大事かなと思って、古文書の他にも古銭などを集めています。先にもメルカリで1朱銀と永楽銭を買ったと書きました。江戸時代の基本通貨である銭のうち、最もポピュラーな「寛永通宝」はもちろん持っています。これは「サシ」で留めたものだったのですが、残念ながら切れてしまいました。「サシ」とは、銭の穴に通して100文、1貫文などの単位で留めるための細い縄のことです。この縄で留められた銭100文の束を数える単位を「連」といいます。ただし、実際には100枚はなくて、96枚~97枚程度をまとめて留め、これで1サシ=100文としていました。逆にちゃんと100文ある場合は、「丁百(ちょうびゃく)」と呼ばれています。これが今持っている貨幣と紙幣です。

真ん中に1朱銀、その左側が「寛永通宝」右側が「永楽通宝」です。寛永通宝を鋳造するようになって、中国からの輸入銭であった永楽通宝は流通しなくなります。左端は、明和元年(1764)のもので、「芸州広島銀札」「五匁」と書かれています。広島藩の、いわゆる「藩札」で銀として通用していますから「銀札」です。で、右端は天保9年(1838)8月付の「銀一もんめ(匁)」札です。「此手形持参次第銀相渡可申也」。つまり「この手形を持ってきたら銀1匁を渡しますよ」と書いてありますから、交換手形ということになりますかね。大和国(現在の奈良県)で発行されたものです。

実はうちの祖父がこうした古銭を巾着袋の中に持っていて、「磨いたらお前にやる」と言っていましたので、一生懸命酢で磨いたのですが、祖父が亡くなったら、形見として叔父が持って行ってしまいました。今はどうなっているのでしょう。私ならもっと活かせたのですがね、と、ちょっと残念に思っています。

ついでですから、寛永通宝と永楽通宝を6文ずつ並べてみましょう。戦国時代でしたら、永楽通宝ですね!

 

投稿者プロフィール

馬場 弘臣

馬場 弘臣東海大学教育開発研究センター教授
専門は日本近世史および大学史・教育史。
くわしくは、サイトの「馬場研究室へようこそ」まで!

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