斉藤君の仕事としての吉田新田

今日のつぶやき
斉藤君の仕事としての吉田新田

一昨日に引き続いて、今日は斉藤司君の告別式でした。さすがに出席は叶いませんでしたが、井上夫妻が出席されたとのこと。なぜか、「骨はしっかりしていたよ」という謎のLINEが奥方の方から入っていました。

今日はちょっと彼の仕事、業績の話をしようと思いますので、斉藤君でいきたいと思います。斉藤君は当初、織豊期から近世初期の政治史、それから鷹場の研究…。横浜市歴史博物館に入ってからは、「民間省要」や「神奈川砂子」の研究等々思いつく限りを挙げてみましたが、何といっても大きいのは、吉田新田の史料を公開して、横浜の成り立ちを明らかにしたことではないでしょうか。

今の横浜市の中心部である中区周辺は、江戸時代のはじめまで海(入海)だったのですが、吉田勘兵衛という人物が、幕府の許可を得て、干拓と新田開発に着手します。明暦2年(1656)のことで、翌3年には大雨で潮除堤が破壊され、工事が頓挫してしまいます。それでも勘兵衛は諦めず、万治2年(1659)に埋め立て工事を再開すると、寛文7年(1667)に、8年の歳月をかけて完成させます。元禄13年(1700)には反別116町余、石高1,084石余と記録されています。この背後には、内川新田(横須賀市)を開発した砂村新右衛門や、箱根用水を開鑿した友野与右衛門などの開発集団がいたことが想定されています。

こうやって見ますと、幕末と絵図と現在の中区周辺が同じ形をしていることが分かりますよね。

吉田勘兵衛に関する史料については、以前からその存在が知られていたのですが、長い間公開されていたなかったものを斉藤君が長い時間をかけて口説き落としたと聞いています。

横浜市歴史博物館での最初の展示や、横浜開港資料館の展示にも足を運んで、斉藤君から直接、説明をしてもらいました。

歴史家の仕事が、後世にもきちんと伝えられていくようなものを遺していくものだとしたら、私はこの吉田新田に関する史料の公開と、その史実をきちんと明らかにしたのが斉藤君にとって最高の仕事だったと思うのです。

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