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2010~2012年度プロジェクト
閑馬学校関係史料目録について

概要

明治初年おける「村落小学校」の実態に関する研究の一環として,その基本となる歴史史料を整理して目録化した。研究対象となるのは,栃木県安蘇郡閑馬村(現栃木県佐野市)の閑馬学校(師道館・閑馬学舎)である。史料整理の結果,筆者(馬場弘臣)が所蔵する閑馬村関係史料245点の内,閑馬学校に関する史料は68点であった。史料の内容は,栃木県をはじめとする各種の布告,布令,廻達などの法令関係史料から,閑馬学校の調査や統計に関する資料,出納関係資料などであり,これらを「閑馬学校関係史料目録」として公開することとした。

1.はじめに

明治5年(1872)8月3日,明治政府は日本で最初の近代的学校制度である「学制」を公布した1)。この学制では,全国を大中小の3種の学区に分け,それぞれ大学区を8学区として大学を8校,中学区を32学区として中学校を256校,小学区を210学区として小学校を5万3760校開設する計画であった。本研究は,この学制下における小学校の具体的な実態について検討しようとするものであるが,平成22 (2010)年度の統計で,国立・公立・私立をあわせた小学校の総数が2万2000校であったから2),これがいかに遠大な計画であったかを知ることができよう。それだけに計画自体に無理があったことも事実であり,学制そのものは明治12年(1879)9月に教育令が公布されたことによって廃止されている。また,これにともなって,学区制も一般的な地方行政区と統合されることになったのである。

こうした学制下における小学校については,すでに大阪の北浜学校(現大阪府大阪市)における詳細な研究などがある3)。しかしながら,この当時の小学校は地域差が大きいことが明らかとなっており,近年は,江戸時代の寺子屋師匠との関係で論じた研究や4),「回達留」にある触令を通して学制の実施状況に迫った研究5)なども発表されている。

ここでとくに注目したいのは,江戸時代でいうところの「村」を単位として開設された「村落小学校」と呼ばれる小学校の実態についてである。本研究では,明治7年(1874)に栃木県安蘇郡閑馬村に開設した閑馬学校をそうした村落小学校の一事例として取り上げる。

閑馬村は,栃木県の南西部にあって,現在は佐野市に含まれている。江戸時代には,寛永10年(1633)以降,近江国彦根藩領となっていて,村高は「元禄郷帳」で1,550石余,「天保郷帳」で1,612石余と比較的大きな村落であった。ただし,閑馬村は山間部に位置しているため,田方の面積は少ない。その反面,林業が盛んなことから,明治になっても隣県や東京に木材や・木炭・薪等を移出していた。明治初年の戸数は276軒であった6)

閑馬村の小学校施設としてはまず,村内の臨済宗高林寺に師道館が開設され,その後,学制下で閑馬学舎,閑馬学校と校名が変更された。行論の関係上,本稿では以後,基本的に「閑馬学校」と称することにする。また,この開設年代や校名変更の時期についてはいくらか相違がみられるので,具体的な検討は今後に委ねたい7)。このことからも明らかなように,具体的な研究を進めるためには,何よりも基礎となる史料をしっかりと把握しておく必要がある。本研究では,史料そのものを翻刻して公開することも視野に入れているが,まずはその第一段階として,閑馬村に関する史料を整理して目録化し,この中でもとくに閑馬学校に関するものを史料目録として公開したいと思う。

2.閑馬村関係史料の概要と史料整理について

閑馬村に関する史料は,平成15年(2003)にYAHOO!のインターネットオークションを通じて筆者が購入したものである。詳しい来歴は出品者にもわからなかったが,段ボール箱1箱分の史料を整理していくうちに,この中に明治初年の小学校行政に関する貴重な史料が数多くあることがわかった。

改めていうまでもなく,歴史研究ではその基礎となる史料を広範に収集して解読し,分析していくことが何よりも重要である。とくに今回のような新出史料の場合は,まずはその史料群を整理して史料目録(リスト)を作成し,全体像を把握する必要がある。その中からさらに,研究に必要な史料をピックアップして解読していかなければならないのである。

中性紙封筒にタックシールを貼る作業風景

中性紙封筒にタックシールを貼る作業風景

史料整理は,段ボール箱に入った史料を上から順番に中性紙の封筒に入れていき,番号をつけていくことから始まった。いくつかの史料がこより等で綴じられたり,紐でくくられていた場合は,さらに枝番号をつけたものもある。これらの番号は,整理のうえでもっとも基本となるもので,目録では「整理番号」と称している。それから史料が作成された「年代」(年月日),史料の「表題」(タイトル)と簡単な「内容」の記述,史料の「作成者」ないしは「差出人」(発給者)と「請取人」(受給者),史料の「形態」と「数量」,そして史料の状態などを記した「備考」と,1点ごとに史料の情報を読み取っていき,これを「目録」としてパソコンのデータベースに入力していった。これらの項目は,個々の史料を具体的に把握する上で最低限必要な項目である。こうして整理した史料には,封筒ごとに史料目録の内容をプリントアウトしたタックシールを貼っていき,年月日順(編年)に並び替え,専用の保存箱に収納した。編年に並び替えるにあたっては,新たに番号をつけてこれを「資料番号」とした。こうして閑馬村関係史料の「史料目録」を作成していったわけであるが,ここではまず,閑馬村関係史料の概要についてまとめておくことにしよう。

史料整理の結果,閑馬村関係史料の総点数は245点であった。もっとも古いものは,安政3年(1856)11月付の「坂組山小割覚帳」であり,このほかにもう1点,江戸時代の年号が記された史料として,文久元年(1861)7月付の「文久元年酉七月処々諸払帳」があった。また,年代は不明ながら,江戸時代のものと確認できる史料がさらに3点存在した。これ以外はすべて明治5年(1872)から明治22年(1889)にかけての史料である。年代が不明のものもおそらくこの範囲内に収まるものと思われる。史料の所蔵者については,「文久元年酉七月処々諸払帳」の裏表紙に「上閑馬村 組頭 田中佐平」の表記がみられ,また,明治時代に入っても,閑馬学校学務委員を務めていた田中佐平に宛てた史料が多くみられることから,この田中佐平家に伝来した可能性が高い。ただし,この詳細についてもまた,史料の解読と現地の調査を進めることで明らかにしていきたい。

閑馬村関係史料の中で特徴的なものの一つは,いうまでもなく閑馬学校(師道館,閑馬学舎)に関係する史料である。この概要については次章でまとめることにして,この史料群にはさらにもう一つ,明治21年(1888)9月に行なわれた閑馬村箕輪山神社(通称山神宮)の祭礼に関する史料が大量に残されている。「演劇」に関する史料もいくらか散見できることから,いわゆる村芝居,地芝居も行なわれたと思われる。また,史料群の中には領収書の類が大量に残されているが,内容をみる限り,これもこの箕輪山神社祭礼に関してのものとみて間違いないであろう。整理にあたっては,こうした領収書類の内,年代が書かれていなくとも祭礼に関係したと思われるものはすべて明治21年のものと推測してまとめておいた。さらに,史料群の中には,これまた大量の熨斗包みや熨斗封筒,そして「酒弐升」などと書かれた短冊形の「酒札」の綴や,「寿し拾箱」などと書かれた,同じく短冊形の「寿し札」の綴が大量に残っているが,これらも箕輪山祭礼に関係するものと思われる。その総点数は150点余におよんでいて,閑馬村関係史料の内60%強は箕輪山祭礼関係史料ということができる。それ以外には,明治10年代から20年代にかけての村会や村費に関する史料が散見される程度である。

3.閑馬学校関係史料の概要について

閑馬村関係史料の内,閑馬学校に関する史料は68点である。【表1】は,閑馬学校に関する史料だけをピックアップして目録化したものである。【表1】の内,「№」は閑馬学校関係資料を公開するために,便宜上の通し番号としてつけたもので,確認のために「整理番号」も載せておいた。以後,本稿の説明における表記はすべてこの「№」を用いることにする。

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閑馬学校関係史料で第一に注目されるのは,明治7年(1874)9月の「御用留」(№1),同年12月の「御布令写留」(№2)に代表されるような,布令や廻達・通達などを書き留めた帳簿・記録であろう。これらには栃木県からの布令をはじめとして,基本的に教育や学校に関する布達・廻達・通達の類が書き留められている。このような「御用留」「布告留」の類は,先の2点以外にも明治13年(1880)までのものが8点残存している(№5,10,14,23,26,27,33,34)。それも1年も欠かすことなくである。つまり,これは学制期から教育令への切り替えにあたる時期の栃木県全体と閑馬学校周辺地域の法令的・行政的な状況が年代を追って確認できるということを意味している。第二の特徴は,これに対応するように,閑馬学校に関する取調書や統計などの史料が残っていることである(№3,6,9,18,19,36など)。これは主に明治7年から9年にかけてのものであるが,法令の浸透過程と実態を知る上で貴重な記録といえよう。第三点目として注目されるのは,「月末試業点検表」が残されていることである。これはいわゆる進級に関わる成績表で,明治9年と同10年のものが確認できる(№12,13,21,22)。さらに第四点目として,閑馬学校に対する退校届けや退校願いが10点ほど残されていることに注目したい(№31,35,43,50,51,52,54~57)。明治11年(1878)から18年(1885)にかけてのもので,困窮を理由に他所へ奉公に行く事例や養子縁組のために退校した事例からは,当時の教育を取り巻く生活環境の厳しさを垣間見ることができる。また,これら以外にも,若干ではあるが,明治8・9年頃の閑馬学校の出納に関する帳簿なども残されている(№4,7など)。

現在確認している閑馬学校の史料は,必ずしも量的に恵まれているわけではない。それは閑馬村全体にもいえることで,今後さらなる史料の所在調査が必要であろう。ただ,先にも述べたとおり,この閑馬学校関係史料には,学制下の栃木県をはじめとする学校・教育関係の布令・廻達・通達の類と各種の取調書や統計,成績表,退校届け・願書などの史料が,最低限とはいえ比較的バランスよく残っているので,これらを相互に分析・検討することで,栃木県などの行政側と在地の対応との関係,制度の浸透具合,実施過程など,重要な課題を解く鍵を提供してくれるものと思われる。

4.むすびにかえて

改めていうまでもなく,本稿は明治初年の村落小学校研究の第一段階として,基本となる史料を確認したに過ぎない。目録化にあたっては,今後の研究に向けて有益な情報を得ることができたのであるが,この内,とくに重要な史料については,筆写(筆耕)した上で翻刻をめざすことにしたい。ここでいう翻刻は,草書体の文書を含め,書かれた史料の文字を読み解いて,活字にすることである。ただし,その際,活字化の媒体は印刷だけにこだわらず,インターネットを通じた史料の公表という点に関しても検討したいと考えている。昨今はとくに,新たな時代のニーズとして,電子書籍が話題となることも多いが,デジタル化された史料,いうなれば電子史料(デジタル史料)とでも呼ぶべき形式での史料の公開についても具体的に考える時期に来ているといえよう。公開の方法はもとより,史料の内容をどのように表現していくのか。ただ単に文字を書き起こすだけではなく,史料の様式や形態など,いわゆる古文書学的な蓄積を活かし,表現していく方法についても研究を重ねていく必要があろう。翻刻にあたってそうした様式や形式,形態などを再現することもまた,史料が持つ情報を最大限に復元する手段だからである。そのためにはどのような方法が適切であるのか。デジタル化に必要なフォーマットなど技術的な研究を含めて,さらに検討を深めていきたいと考えている。それが次のステップである。

注釈

1)倉沢剛『学制の研究』(講談社 1973)、尾形裕康『学制実施経緯の研究』(校倉書房 1963)など。

2)文部科学省ホームページの学校基本調査,2010年12月22日公表分より。

3)大森久治『明治の小学校―学制から小学校令までの地方教育―』(泰流社 1973)

4)濱田由美「明治初期に於ける東京府の小学校について―寺子屋師匠と学校との関わりを中心として―」『大正大学綜合佛教研究所年報』第32号1

5)土門洋介「明治初期「学制」実施過程に関する若干の考察―栃木県下飯田小学校「回達留」を素材として―」『専修法研論集』第45号

6)角川地名大辞典』閑馬村の項

7)ちなみに『栃木県教育史』第三巻(栃木県教育史編纂会編 1957)では,明治7年(1874)9月開業となっている。また,『角川地名大辞典』では,明治6年に師道館が開校し,同8年閑馬学舎,同11年閑馬学校,同20年に閑馬尋常小学校に改称したとある。

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文責:東海大学教育研究所准教授 馬場弘臣

現在のプロジェクト

2014~2016年度東海大学文明研究所コアプロジェクト
「震災復興と文明」

過去のプロジェクト

2013~2015年度
「東海大学の創立と発展に関する基礎的研究」 ※当プロジェクトは2014年の組織変更のため、廃止
2010~2012年度
「近代村落小学校の設立に関する基礎的研究」
2007~2009年度
「「風聞集」にみるペリー来航から幕末維新期にかけての社会変動に関する研究と関係史料集の翻刻」